愛に恋

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大阪の宿 水上滝太郎

この小説の舞台、旅館酔月は実際に照月という名で大正時代、大阪の土佐堀に存在したらしい。
その近くに知り合いが経営する喫茶店があるので、知らず識らずのうちにこの界隈を歩いていた。
 
舞台は大正8~9年あたりだが、現在とは旅館の様相がまるで違う。
今では部屋に案内してくれた仲居さんが一切合切を賄う。
泊まるにしてもせいぜい2泊3日ぐらいなものだが、大正の昔にあっては、まるで下宿代わりに住み込んでしまうことがある。
その場合は三食付きになるが、しかし、壁が薄いため向こう三軒両隣の声は筒抜け。
 
そんな旅館に主人公の三田は会社勤めの傍ら、副業として小説を書き、新聞社に売り込む生活をしているというストーリーで、あまり人付き合いが好きではなく、夜は黙々と原稿に向かい、女中からは偏屈でつまらない男と見られている。
当時の女中は、お酌もすれば場合によっては夜伽まで付き合うらしい。
 
作中、何度も登場するのが酒宴の場面。
三田の友人で芸者のうわばみは酒癖が悪くコップ酒で一気飲みが始まると、常に場は荒れ模様となり、腹が立つと、客の頭に酒をぶちまけて帰ってしまう。
 
夫婦の痴話喧嘩、友人との討論と確執、物見遊山、下宿人同士の人情。
今も変わらぬ人間関係の問題が多く、主人公が体験して行くそれらの出来事は、一般人の多くが経験することだけにどうしても新味に欠けるものがあるが。そこが大正文学の情味なのだろう。
 
「彩しい煤煙の為めに、年中どんよりした感じのする大阪の空も、初夏の頃は藍の色を濃くして、浮雲も白く光り始めた。 泥臭い水ではあるが、その空の色をありありと映す川は、水嵩も増して、躍るようなきざ波を立てゝ流れて居る。 川岸の御旅館酔月の二階の縁側の藤椅子に腰かけて、三田は上り下りの舟を、見迎え見送って居た。目新しい景色は、何時迄見て居てもあきなかった。此の宿に引越して来て二日目の、それが幸なる日曜だった。…」
 
三田は上り下りの舟を、見迎え見送って居たとあるが、そんな風流なものは今や昔。
私は自動車の騒音を聞き流していたと言いたい。