懐かしいですね、60歳前後の方ならまず知らない人が居ないぐらい有名な歌で、映画化もされ、東映のスターが出演していました。
元々は確かラジオ番組だったらしいが、何と言ってもこのイントロ!
♪ ひゃらーりひゃらりーこ
一度聴いたら忘れられないメロディで、現在では知る人も少ないが、作曲者は福田蘭童という人で尺八、ピアノ、バイオリン奏者にしれ作曲家、当時、流行っていた『紅孔雀』」もこの人の曲です。
ところでこの絵、
「いつかの展覧会に青木という人が海のそこに立っている背の高い女を描いた。代助は多くの出品のうちであれだけがいい気持ちに出来ていると思った・・・」
漱石40歳、青木25歳ぐらいだろうか。
その青木繁は夭折の天才画家として知られるが、一粒種の息子に石渡幸彦という人がいた。
即ち福田蘭童、その人で、福田の息子が石橋英市、ジャズ・ピアニストとして名を上げ、後にクレージー・キャッツの一員となった石橋エータローとなる人だ。
やっぱり血筋だろうか親子三代でこんなことがあるんですね!
本書は福田蘭童によって書かれたものだが、親族の消息はどうなっているのか、かなり詳しく調べ周り、台湾の高雄に繁の弟が存命なのを知り、父の最期が如何なものだったか訪ね訊く。
妻と子供を置いて出奔した後、4年間ほど佐賀の辺りを放浪し、博多の松浦病院で最期を迎える。
「誰も居ない病院で、玉子を買って来いと云うから幾つだと云うたら三十だと云う。じゃ二十でいいだろうと云うと、どうしても三十じゃなきゃあだめだ、と云うので、ととのえると、そのうち五つを潰して一息に呑んだ処、あと一杯だと云うまた五つ潰したら、待ってくれと云う。その内、空中に手をのばして何か書こうとして、そのままだった」
それが明治44年3月25日で、その頃、妻は子供(蘭童)を抱いて夫の行方を捜していた。
遺品としてベッドの下にはカバンとステッキが遺され、カバンの底に赤ん坊の写真があるのを見つけた祖母が初めて子のある事を知ったとか。
繁が残した姉妹への手紙は読むほどに哀しい。
遺骸を処置する者さえ居ない自己の運命を悲しんで死んでいった繁。
青木家は代々、反骨精神のある家柄なのか先祖は福岡有馬藩の下級武士で、維新の折は父や長男が佐幕派なのに対し、繁の父は勤皇党に属していた。
後年、その父の逆鱗に触れ、抜き身の槍を喉元にぴたりと突き付けられた時、繁は「お突きなさい」と平然と言ったとか。
なら、是非会いたいと母に内緒で所在を調べ、17歳の時、折り合って京都に出向いた帰り、湯河原に住む父を訪ね再会に至る。
それからのエータローの活躍はご存知の通りで。
しかし維新以来、4代の家系、将に大河ドラマを見るようだ。