時空を飛び越えて、維新を生きた人と名刺交換でもしているような錯覚を覚える本だ。
幕末の侍や明治初年の裕福な日本人、または外人の写真が300枚余も掲載されている。
以前、鎌倉の鶴岡八幡宮や大仏の前で映る侍の写真を見たことがある。
勿論、二本差しだが、この写真を見て驚いた。
修学旅行の時、私自信が同じ場所で写真を撮っている。
あたりまえのようだが実に不可思議。
時間の迷宮に迷い込んだが如く、貸衣装を着て、丁髷、刀を差し、無名武士と同じ場所でカメラに納まる、どうだろうか、そんな所が今も存在する。
余談が長くなった。
この本は森有礼の伝記本というわけではなく、森が蒐集して今日に残った貴重な写真、外務、文部を兼ねて欧米の赴任先や外遊で貰ったカードのことが主体となっている。
森有礼(ありのり)とは、初代文部大臣のことで、薩摩出身の有能な人材で明治政府には無くてはならない人だった。
その森が蒐集したカード、明治初年の頃は名刺代わりに自分の肖像写真を撮り、その裏に名前など書いて交換するのが流行っていた。
カード蒐集家を英国ではカルトマニアと呼びフランス語ではカルト・ド・ヴィジットと呼んだらしい。
文久三年、薩摩は薩英戦争に敗れ、初めて外国の威力を知り、和平交渉で軍艦購入の斡旋と留学生派遣の援助をイギリスに依頼、その中の一人に森が選ばれた。
森は人間観察を通して封建的精神の払拭、これからの日本は積極的に欧米に留学生を派遣、文明開化の思想を広めること急務と考え、極端な欧化主義をとる取るようになる。
明治以降、全てにおいて英国風を重んじ明治二年には廃刀令を提案。
しかし、国内情勢は混沌、保守派からは危険人物としてのレッテルを貼らていた。
そんなことは意に介さない森は、積極的に外国人と交わり、日本の近代化こそは急務と考えた結果がこの本に集約されている交換カードだ。
当時の写真は高価なだけに余程の人物としか交換しなかったと思われる。
積極的に留学生を世話して、本人も勉強を怠らず八面六臂の活躍で外国人からも熱い信頼を受けていた。
アルバムの中には珍しいサラ・ベルナールの写真もあり、近代演劇に興味があったことも窺わせる。
だが、あまりに極端な欧化思想のため、二人の息子さえも日本語を忘れるほど勉強させられたようだ。
その伊藤に請われて文部大臣になったのが森だった。
迎えた大日本憲法発布の当日、明治二十二年二月十一日、永田町の文部大臣官邸で森は暗殺された。
極端な欧化主義者、あるいはキリスト教信者と思われたのが死を早める結果で、森が命を賭してまで取り組んだ合理主義の教育法は、当時の民衆には受け入れられなかった。
一般民衆の近代化に対する意識の落差は、あまりにも大きすぎた結果の悲劇だったとも言える。
森アルバムの写真が散逸を免れたのは、ウインドー・アルバムといって一枚一枚アルバムに貼っていたためで、箱の中に収蔵しているだけでは所有者の死後、散逸してしまう。
今日から見れば本当に価値ある貴重なアルバムだが、しかし、これとて昭和30年頃、ある古書市で見つかったものらしい。
森の死後、如何なる変遷を辿って古書市に出たのか興味深い。