佐伯祐三 哀愁の巴里 白矢勝一 吉留邦治

 
佐伯祐三絵画の真贋論争?
聞いたことないな。
いや、ただ私が知らないだけの話しだが。
ならばということで早速古本屋へ。
見つけたはいいが、何やら小難しそうな本。
 
本題に入る前に疑問点が二つ!
大正9年9月1日、祐三の父祐哲が58歳で死去。
死の直前、息子兄弟の結婚を許すとあるが、即ち、兄祐正と大谷菊枝、弟祐三と池田米子の結婚だが、どうしたことか28日になって兄の許婚、大谷菊枝が自殺している。
晴れて所帯を持つはずではなかったのか。
しかし、著者はこの件については何も触れていない。
 
いま一つは、祐三夫妻が巴里渡航のため神戸港を出帆したのが大正12年11月26日。
既にこの時、長女彌智子が2歳になっており3人での渡航となった。
帰国は大正15年3月15日だが、せわしなく昭和2年8月2日、下関から乗船してソウル経由でシベリア鉄道に乗り再び巴里へ向かった。
この間、僅か1年と5ヶ月足らず。
 
祐三は結核を患い、この時点で既に喀血していたので、友人らが再三、渡航を見合わせ暫く静養してはどうかと説得するのを振り切っての出発だった。
その理由を著者は妻の先輩、中山茂子なる女性と一線を越えてしまったため、罪の意識から逃れるように旅立ったような推測を立てているが。
祐三は、住職の息子として生まれ、人一倍純粋だったため、この過ちを悔いていたのかも知れないが、果たしてそれが第二次渡仏の真相かどうか私には分からない。
 
さて本題だが、何でも1994年岩手県在住のYという女性が、福井県武生市に「佐伯作品38点」と関連資料を寄贈したことに端を発している。
それを受け武生市側は、美術館建設を前提として専門家を集めた選定委員会を組織。
 
ところが、時を同じくして東京美術倶楽部社長と同倶楽部鑑定委員らが、全作品を調べ、全て贋作と表明したから事はややこしくなった。
そこに登場したのが名探偵ポアロならぬ落合莞爾氏という人物。
Y氏の代理人的立場で、作品38点と資料は全て「真正」という論陣を張り前面対決。
 
そもそも巴里で客死した祐三の作品はどうなったのか?
祐三が結核で死んだのは昭和3年8月16日、彌智子も30日に同病で亡くなっている。
失意の中、米子が遺骨を抱いて帰国したのが10月31日。
残された作品は下落合に住む友人の戸山卯三郎宛に全て送られた。
帰国後、米子は「佐伯遺作展」を開き、その後、作品の多くは大阪の兄祐正に形見分けとして送られる。
最終的に祐正の下から複数の画商を経て、山本發次郎なる蒐集家の手に渡り、国内最大のコレクターとなったが残念なことに作品の3分の2は戦災で消失してしまった。
 
つまり、佐伯作品の正規なルートは「米子・戸山・祐正・山本」というのが真相で岩手県のYという女性に渡った経緯は事実上ないということらしい。
しかし、落合氏側はこんなことではひるまない。
何でも、月間雑誌「ニューリーダー」で、Y氏側には父の日誌や手記など多くの資料が存在し、落合氏自ら資料を整理、調査し今ここに発表す、としている。
 
つまり、Y氏の父親が祐三から譲り受けたとしているのだが、そのような話しは聞いたことがないと全面否定しているのが、祐三の姪(祐正の長女)で、武生市長に寄贈された問題の180点の資料を調査依頼してる。
 
しかし、落合氏側は更なる手として「作品借用書」の存在を明らかにする。
米子が遺作展を開いた時の、Y氏の父に借りた101点の佐伯作品借用の証拠だと言う。
そもそも祐三とY氏の父なる人物との関係は、経済的援助と精神的カウンセラーを施していた間柄だと主張している。
 
Y氏側が武生市に提出した資料は日記、メモ、手紙類、水彩画、デッサン、米子、祐正への手紙類などかなりの数になる。
著者は東大の博士号を持ち、眼科医、日本医家芸術クラブ美術部部長と様々な肩書きと油絵を趣味とする粋人らしいが、その著者が言うには、佐伯関連の本にY氏が登場する文献は全く無く、持ち込まれた資料を調査した多くの研究機関が、全ての作品を贋作と結論付けている点など、かなり批判的な立場を取っている。
 
しかし大きな疑問も残る。
これらY氏が寄贈した作品、文献の全てが偽造だとしたら、こんな大掛かりなでっち上げを創作した人物は「天才的創作家」だと著者も言っている。
何ゆえこのような問題を起こしたか?
これがもし全部真作なら、億単位の金が入ってくることを見越しての狂言なのか。
それにしても手が込み過ぎている。
 
38点の絵を描き、日記、メモ、デッサン、米子と祐正への手紙などを偽装し、更に作品借用書も持ち出してくる所業。
もし、全て嘘だとしたらあまりにも大風呂敷な話しではないか。
 
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