永井荷風 ひとり暮らし 松本哉

 
永井荷風を知ってしまった人は幸なのか不幸なのか、ある程度の年齢に達しないとわからない珍味の一つである」
 
と、著者は言っている。
 
「作品よりも荷風という人間が面白いのだ」
 
なるほど!
 
「四十を過ぎたら荷風にはまりこむという噂は本当だった」
 
と、公言しているが、果たして私は荷風にはまったかどうかは別にして、荷風を初めて読んだのは確かに四十を過ぎてからだった。
若い頃は永井荷風などは難しそうで、まず手に取ることもなかった。
しかし、『断腸亭日乗』は将来国宝になるのではないかと思うぐらいの一品。
名文で埋め尽くされていると思うようになった。
 
一度、その原本をテレビで見たことがあるが、荷風散人は、あの空襲の最中でもこれだけは肌身離さず持って逃げ回っていた。
荷風といえば、まず奇人変人というイメージだが、無類の女好きという印象も付きまとう。
然り、荷風は2度の結婚と20人ばかりの女と同棲を繰り返し、その晩年に至るまで浅草のストリップ小屋の出入りは止めなかった。
 
初婚相手とは半年で離婚、理由は他でもない、好きな女が居て、親の手前、形だけの結婚を済ませ、初夜から避妊は怠りなく元より子供を作るつもりはなかったらしい。
父親が死ぬと待ってましたとばかりに離婚。
 
当然のことながら女出入りが激しいと映画さながらの修羅場も演じられる。
浮気現場に踏み込んだ女とのつかみ合い喧嘩などはあたりまえ。
しかし荷風散人には生涯を通して貫いた三原則がある。
 
「人前で酔っ払わないこと」
「処女を犯さないこと」
「素人女と関係しないこと」
 
勿論、三界の首かせになる子供を持つことは断じてご法度。
数あるエピソードの中では吝嗇に関する逸話も多い。
友人が亡くなった時、香典に100円しか包まなかった。
当時の100円はコーヒー2杯分。
満座を驚かしたのは言うまでもない。
 
味噌の味噌臭きは上味噌に非ずの諺どおり、あまり肩書きを誇るような人間を嫌い、君子淡交、つまり女との情義はともかくも、他人とはあまり深く交わることを好まなかったようだ。
例えば菊池寛から年賀状が届くと、
 
「あなたから新年の賀辞を受けとるいはれはない。御返送仕候」
 
と書き添えて返送してしまうほどの偏屈さ。
しかし荷風の美文、名文は余人をして真似できない。
 
「往昔の好景けだし察するに余りあり」
「老松、古竹、宛然一幅の画図をなす」
 
これは風景描写の文章で現代人ではこうは書けない。
これなどはどうか!
身請けした、お歌なる女に家を持たせ、その妾宅を「壺中庵」と名づけ昼の日中から事を為す。
上手い、これは上出来!
 
雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、つきせぬ戯れのやりづゝけも、誰はばからぬこのかくれ家」
 
「壺中庵」という名からして淫靡だが、エロもこのように表現されると文学の香り高くなる。
 
「夕暮の渡船に鬢の毛吹きなびかす女と川添の二階より水を眺むる女には無理にも言葉が掛けてみたい」
 
百戦練磨の荷風散人、言うことが艶っぽい。
しかし晩年の荷風の表情にはどことなく裏淋しい面影が漂う。
連日通う浅草の「尾張屋」では判で押したように「かしわ南蛮」しか食べない。
更に最晩年には自宅近くの「大黒屋」で、これまた決まったように毎日がカツ丼。
それにしても、あれほど女出入りが激しかった荷風先生。
最期は誰、看取られることなく孤独死と相成った。
 
自宅で事切れていた荷風の臨終写真が残っているが、一度見たことがある。
胃潰瘍で血を吐き独り静かに黄泉の客となった。
大文豪にしてこの最期。
あまりに寂しい終焉ではないか。
それを覚悟の上の独り暮らしであったか。
 
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