「船から離れろ」
という支持。
二人は諦めず、舷側の梯子にしがみ付くが、船員らは上から長い棒で舟を突付き荷物と太刀を乗せた舟が波間に消えて行ってしまった。
小舟が見つかれば密航が発覚してしまうと諦めた松陰らはそのまま自首。
実は幕府とペリーの間で交わされた日米和親条約の条文には、密航者を乗船させない取り決なされてあった。
そうとも知らず前夜から隠れていた祠が今でも下田に現存している。
上段の写真中央に見える祠、広さは畳2畳分ぐらいだろうか。
柿崎弁天島といって松陰らはこの中に隠れ、夜陰に乗じて密航するつもりだった。
その昔、2度ほどここを訪れたことがある。
こんな狭い所に隠れていたかと思うと、実に感慨深いが、わざわざバカ丁寧に自首しなくてもよさそうなものだと思うのだが、果たして代償は高くついた。
安政6年10月27日、斬刑に、駕籠に押し込められた時に同心が、
「御覚悟は宜うゴザリ升す歎(か)」
と聞くと、松陰は、
「素(もと)より覚悟の事でゴザリ升す。各方(おのおのがた)にも段々御世話に相成升た」
と神妙に答え、遺書にはこのような一首が。
親思ふこころにまさる親ごころ
けふの音づれ何ときくらん
そして本書の主題、宝島やジキル博士とハイド氏で有名な作家、スティーヴンスン。
何の関係があるのか、松陰とは一面識もない上に来日したこともない。
小説『宝島』が生まれたのは1883年、『ジキル博士とハイド氏』の完成は1886年。
トラジロウ・ヨシダとは即ち、松陰こと吉田寅次郎のことで間違ってもフーテンの寅さんではない。
我が国初の松陰伝が出たのは明治17年、つまり1891年。
にも関わらず一面識もないイギリスのスティーヴンスンが何故、松陰のことを知っていたのか?
同時代人としては9年の重なりはあるが、スティーヴンスンはいかなる方法でトラジロウ・ヨシダを知ったのか?
謎解き歴史ミステリー!
まあ、今日はネタバレはしない方がいいかも。
興味ある方は、一読をお薦めします。
最後に松陰処刑の様子はこのようなものであったとか。
立ち会った役人が、
「何か言いおきたいことなきや」
と聞くと松陰答えて曰く。
「この期に至り格別申しおくことなし、が、お言葉に甘え、いざお斬り下されと申すまでは暫時おひかえのほどを」
と言い、水をおし戴き、三口飲んだあと辞世の詩を朗唱し終わると、肩衣を脱ぎ、静かに膝の下へ敷物とし
「お役なれば、さあどうぞ」
と首をさし出した。
時に吉田松陰、二十九歳。