愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

星々の舟 村山由佳

 
第129回(平成15年度上半期) 直木賞受賞 。
 
誰だったか、辻の角に一日座っていれば、何かしら物語が浮かぶ、というような大正時代の作家がいたと思うが、要求される観察力と、心理を掘り下げる洞察力は文学では大事なことかと思うが著者は、
 
「何のために」はなく、いまここに生きているという圧倒的なまでの実感
 
と書いているが、本当だ!
私も何のために読書を続けているのか、という疑問符にぶち当たるが、いまここに生きているという圧倒的なまでの実感、という定義を当てはめると、確かに、それでいいのだと落としどころに気が付いたような気がする。
本書は誰が主人公というわけではなく、登場人物それぞれに光を当て、解説にはこのようにある。
 
家族だからさびしい。他人だからせつない──禁断の恋に悩む兄妹、他人の男ばかり好きになる末っ子、居場所を探す団塊世代の長兄と、いじめの過去から脱却できないその娘。厳格な父は戦争の傷痕を抱いて──平凡な家庭像を保ちながらも、突然訪れる残酷な破綻。性別、世代、価値観のちがう人間同士が、夜空の星々のようにそれぞれ瞬き、輝きながら「家」というひとつの舟に乗り、時の海を渡っていく。愛とは、家族とはなにか。03年直木賞受賞の、心ふるえる感動の物語。
 
文学上、苦手な場面として、いじめとレイプが主題になっているものはまず読まないが、意に反して、それら二つに遭遇してしまい、何か非常な緊張感を持たされた。
本書に於けるレイプとは日中戦争時の慰安婦を扱っているが、性質上、問題を深く掘り下げるには避けて通れなかった場面なんだろう。
 
しかし、著者の作品は容赦なく深みに入り込む点が逆に素晴らしいのだと思うが、一歩、境界を跨ぐように禁断の果実を喰らいながら言葉を紡ぐ。
例えばこんな文章はどうだろう!
 
慰安婦の下半身のことを言っているのだと思うが。
 
年々、不具合の増していく、軸のゆがんだ荷車のような体の奥に、そこだけ少しも老いることのない無防備で柔らかな一隅が残されていることに気づかされて、もどかしいような息苦しいような思いに駆られるのだ(略)
 
文学的表現ですね!
ところで、私も勉強不足で知らなかったが、当時のサックにはこう書かれていたのだろうか。
 
「突撃一番」
 
まあ、あまり好ましい事とは思わないが、命の遣り取りが日々行われる戦地にあっては平常の精神状態でいられないために、女を抱くことに依ってしか憂さを晴らすことが出来なかったのか、なんとも男としては、この問題と向き合うには痛すぎる。
 
幸福とは呼べぬ幸せも、あるのかもしれない。
(略)
叶う恋ばかりが恋ではないように、みごと花と散ることもかなわず、ただ老いさらばえて枯れていくだけの人生にも、意味はあるのかもしれない。何か・・・・・こうしてまだ残されているなりの意味が。
 
こんな文章を読むと悲喜こもごも、色んなことを考えさせられる。
 
庭は建物の礼服
 
考えてもみなかった発想で、思い浮かばないね!
 
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