愛に恋

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鹽原日記 岩野泡鳴

 
岩野泡鳴などと言っても現在はすっかり忘れられいるが、大正の一時期、自然主義派の作家としてそれなりに名の知られた存在だった。
以前、嵐山光三郎さんの著書で始めて氏の存在を識り、その破天荒な生き方や奔放な女性関係に興味を持ち、今に残る『泡鳴五部作』なる大作?を読んでみたが、しかし、この本を探すまでが一苦労だった。
 
泡鳴は1920年没なので絶版も絶版!
古本屋を駆けずり回りやっとの思いで手に入れた代物。
まあ、余程の物好きでもなければお奨めする本でもない。
更に『鹽原日記』なるものを続きとして読んだがみたが、なんのことはない。
ただの塩原日記である。
いやただの塩原日記でしかない。
 
自動車(乘り合ひ、一人前四圓)で五里半の道を四十五六分で鹽原の 福渡 ( ふくわた ) りと云ふ温泉場へ來た。
 
当時はこの辺りに御用邸があり、周りの景色の様子などが書かれている。
 
「僕のやうな商賣のものがこの宿へ來たことがありますか」
 
と訊くと、
 
「大町さんと云ふお方が暫らく御滯在のことがございました」
 
と答へる。
大町とは大町桂月のことだろう。
近くに「清琴樓」という宿があり故尾崎紅葉が『金色夜叉』を書いた宿として有名になったなど他愛も無い話しが続く。
 
「そして小説を五十三枚書き終はつたので鹽原郵便局で人間社宛ての原稿の書き留め郵便を送った」
 
あとは車夫と何処の景色がどうだ、あそこの景色はどうだと言いながら、夕食にはまだ時間があるので少し寄り道をしていたら、ある中年夫婦が写真を撮っていた。
 
「それが小寺健吉氏とは僕も思ひも寄らなかつた」
 
小寺健吉とは誰ぞ?
調べてみると大正、昭和に活躍した洋画家とある。
そして二人で碁を打ち食事をして、
 
中央公論の續きを書き初めて、午前の一時半まで起きてた」
 
で終わり、本当に単なる「鹽原日記」だった。
ただ、冒頭に「十月廿七日」とあるが何年なのか調べても分からなかった。
 
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