愛に恋

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天皇陛下の私生活: 1945年の昭和天皇 米窪明美

 
長い天皇家の歴史の中でも壬申の乱を除けばどうだろうか、信長時代の正親町天皇足利尊氏と戦った後醍醐天皇、幕末の動乱に苦悩した孝明天皇、日清、日露を乗り切った明治天皇、そして天皇制すら危ぶまれ激動の時代を生きた昭和天皇
しかし、国土が焦土と化し、民族が滅亡の淵に立たせられた昭和20年、いったい昭和天皇は何を考えどうしていたのかというのが本書だが、歴代天皇の中でもこれほどの激動期に生きた人は他にいないのでは。
 
今日『昭和天皇実録』や『昭和天皇独白』を初め多くの側近日記などが刊行されているので研究も大いに進み、日々の天皇の様子なっど明らかになっているが本書は、その昭和20年に限って書かれているので非常に興味深いものだった。
 
この年、内閣を率いていたのは陸軍大将小磯國昭。
その小磯内閣時代に起きた大惨事といえば3月10日の東京大空襲で、記録によると空襲警報が発令されたのは午前0時15分、334機のB29が約38万発の焼夷弾を投下、米軍は攻撃に際して関東大震災の延焼地図を参考に効果的に日本の首都を燃やし尽くしたとあるが、いくら戦争とはいえ無差別に無辜の民を殺してもいいものだろうか。
僅か3時間足らずの空襲で約23万戸が焼失、死傷者約12万人とある。
 
皇居とて無差別爆撃の例外ではなかった。
主馬寮事務所が全焼
吹上御苑広芝一帯
瓢池、中央御茶屋
観瀑亭前芝地
内廷南堤芝地
石置場上外側芝地
平川門番所後方芝地と各所で火災発生。
 
御文庫の屋根も類焼、まったく天皇を焼き殺す気か!
宮内省職員による、この時の陛下の様子が残っている。
 
陛下のお顔は火炎のほてりで、あかあかと照らし出されていた。
真一文字にひきしめられた御唇。
ありありと窺われる御苦衷の表情。
くい(杭)のように立って微動だにせぬ御姿。
まのあたりに拝して、感ただ無量。
しかも陛下は御一語だに発せられず、黙々としていつ迄も立ちつくしておられた。
 
5月25日10時23分、天皇皇后は側近たちと共に御文庫地下にいたがまたもや大空襲が始まり、10日の空襲では下町一帯が対象になったが今度は山の手一帯が標的で、青山、赤坂、銀座、霞が関と帝都の中心部は猛火に包まれ、皇居は奇跡的に空襲を免れたと思った矢先、けたたましい電話のベルの音。
職員が受話器を取ると皇宮警手の悲鳴のような叫び声。
 
「正殿が火災です! 正殿が燃えていますよ!」
 
顔をこわばらせた陛下も叫ぶ。
 
「正殿に火がついたか、正殿に! あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。なんとかして消し止めたい」
 
一説によると外国公使を含め、見る者すべてを魅了したその正殿は見る影もなく焼け落ちてしまい、御学問所、天皇皇后の住まいであった御内儀も灰燼に帰し、皇宮警察間、警視庁特別消防隊員合わせて33名が死亡。
また、大宮御所、東宮仮御所、青山御殿が全焼、秩父宮三笠宮閑院宮東伏見宮、梨本宮邸も罹災、ともあれ多くの地域が被災、内閣は海軍大将鈴木貫太郎に交代していたが終戦の兆しは見えず。
 
しかしこの時期、首相は戦争終結について模索していたが、問題は如何にして軍を抑えるか、下手をするとクーデターが起き元も子もない。
余程のことがない限り負け戦が続いても軍は徹底抗戦を叫び、最後まで行くしかないという気持ちだったのだろう。
戦争は始めるのは簡単だが終わるのが大変というが、どう解決したらいいのか、それは天皇にも分からなかったのだろう。
 
終戦に至る経緯は書くまでもないが重臣、閣僚、軍人の自決や処刑、そして逮捕と或る意味、国家の忠臣だった臣下をこのような形で失うのは天皇として不本意だったと思う。
日本史に於いては昭和20年こそ長く記憶に留め、民族として忘れてはならない年ではなかろうか。
 
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