さてと、この難儀な本を何から書き始めたらいいのか実に悩ましい。
多少なり記憶も総動員して書くので不備な点があればご容赦願いたい。
ドイツと防共協定、軍事同盟を模索していた最中、何の報告もなくいきなり独ソ相互不可侵条約の提携ニュースに平沼は有名な一言を残して内閣は総辞職。
「欧洲の天地は複雑怪奇なり」
実に微妙な時期での退陣だった。
西部戦線はドイツの独壇場でイギリスを除く殆どの国がドイツの勢力下に。
つまり独ソによる欧州分割論で両者の共通分母は恐怖政治による反対勢力の抹殺。
それは暴力を持ってしても打倒さなければならない全体主義の宿敵であり、まさに世界は二分されようとしていた。
そしてベリアはスターリンに書簡を送る。
簡単に言うとこのようになる。
「戦争捕虜収容所にいる14000人のポーランド人将校らは特別手続きに従って検討し、収容者に対して最高刑、すなわち銃殺刑を適用す」
「特別手続き」とはなにか?
つまり、証人喚問、告発状、予審、証拠提出なしに即刻死刑判決。
その指令書にスターリンはサイン。
史上名高いこの大虐殺の長年の懸案は犯人は誰かという点。
今でこそ事実はそれなりに明らかになっているが、事件が発覚した1943年当時の戦局が事情をややこしくしているがベリアの理論だとこうなる。
ソ連側が大量処刑に着手したのは40年4月3日。
41年6月22日独ソ戦が勃発。
この時点で東部ポーランドでの犠牲者は44万人に上り戦況はややドイツ側に不利。
「今、必要なのはヒトラーを打倒することだと」
数ある証拠の中からナチ親衛隊では遺体の金歯や貴重品は取り去るように命令されていたが指輪などは嵌められたままだった。
更に殺害された時期を40年春だと断定、ソ連勢力下の犯罪だと結論付けた。
ここからは歴史に禁句の「もし」の話しを少ししたい。
独ソの蜜月時代が長く続き、例えアメリカが参戦したとしてもドイツは東部戦線には関与せず対イギリス戦だけに全力を傾けることができる。
日本とて北方でのソ連問題がなくなり南方だけに集中できる。
事実、ソ連側は40年11月に「四カ国協定」を結び軍事作戦が長期化した場合には肩入れするとまで言っている。
ソ連が枢軸側だった場合、戦局は如何な展開になったか。
ともあれ今回初めて纏まった本として『カチンの森』を読んだが日本ではこの題材を扱った本は少ない。
それにしても不倶戴天の敵リッペントロップ=モロトフ協定とはさぞ世界も驚いたことだろう、ヒトラーはボルシェビズムの打倒を叫びスターリンはナチ・ファシズムと闘えと豪語、因みに39年9月17日、ソ連は宣戦布告なしにポーランド領内に侵攻している。
東京裁判の被告訴追の中に「侵略に対する罪」「人道に対する罪」「平和に対する罪」という項目があるのを知っているだろうか。
連合国判事席の中には無論ソヴィエトも含まれている。
「侵略に対する罪」「人道に対する罪」「平和に対する罪」を犯したソ連が判事団の中に名を連ねる!
これをどう理解したらいい!
前科持ちが前科者を裁く、これは異なことだ。
とは言っても詮無いこと、歴史は勝者に依って塗り替えられる。
ところで当時のポーランド首相フェリツィヤン・スワヴォイ・スクワトコフスキ、彼は一体、何をどうしようとしていたのだろうか?
伝記があったら読みたいのだが。
最後にアンナ・ハーレンとの言葉と当時の映像を載せておく。
「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩を和らげはしない。なにも克服されないのだ。事実の意味合いが生きているかぎり、それは長いあいだ続くかもしれない。過去の「克服」はくりかえし語りつがれる物語の形をとる」