愛に恋

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原民喜 死と愛と孤独の肖像 梯 久美子

 現在、お気に入りの作家が4人いる。
 
朝井 まかて 1959年8月15日 -
梯 久美子  1961年 -
村山 由佳  1964年7月10日 -
堀川 惠子  1969年11月27日 -
 
単なる偶然だが4人とも女性で、朝井と村山は小説家、他はノンフィクション作家で甲乙つけがたい面白さがある。
今回の主人公は原民喜、知っているだろうか?
以前、確か遠藤周作の妻が書いた本で知ったと思うのだが、それ以来、機会があれば読みたいと思っていたが、何を読めばいいのか悩んでいた矢先、梯 久美子の新作が本書だと知って早速購入。
 
梯 久美子に注目した動機は女性では珍しく栗林中将を2度も書いていることと『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホとまるで隔靴搔痒のような塩梅で、作品が提示されたことが私の趣味に合っていた。
とにかく、その手法はまるで敏腕刑事のそれで、あらゆる資料を渉猟する点など恐れ入るばかり、今回も期待に洩れずいい作品だった。
では、一体、原民喜とはいかなる人物だったのか証言者の記録を通して少し見てみたい。
 
原は通俗的なものを嫌うあまり、世渡たりどころか他人とのごく普通の付き合いさえ出来なかったとあり、子供時代、クラスメイトは原の声を聞いた者がいないというほど他人との交わりを嫌い、挨拶の返礼も出来なかった。
 
「ほんの少しの俗智もなければ俗才のかけらもない」
 
と、友人は書き、臆病なのか純粋なのか、大学時代を送った東京では乱脈生活を心配して実家から縁談の話が持ち込まれ、結婚しなければ仕送りを絶つと脅しがかかる。
 相手は6歳年下の永井貞恵、しかしこの結婚が原にとって幸いとなった。
だが、結婚後も定職を持たず実家の財力に頼る生活能力のない原に対して貞恵の両親は離縁を進める、たが頑として応じず、夫の才能を信じ文学に専心できる環境を整えることに努力する貞恵を原は心から愛し、まるで子供のように貞恵の横から離れることを嫌い、町医者に行くにも付き添いを願いひとりで外出することも好まなかった。
ある日、大先輩の佐藤春夫に作品を見てもらうという大切な場面でもろくに話ができず、いちいち貞恵に取り次いでもらうほどで佐藤はそんな原を見て、
 
「小学生が母親に連れられて学校の先生の前に叱られに出たかのように見えて」
 
と言っている。
しかし結婚6年目の昭和14年9月、貞恵は肺結核を発症、病状は一進一退で一日おきにお見舞いに行く原を動物園に行く小学生のようだったと貞恵の弟は書く。
だが原の願いも虚しく貞恵は昭和19年9月28日死去、享年33歳。
原は父、姉を亡くし今また妻を亡くす悲しみに耐え、独り生きて行かなければならない、こんな状況になったら精神的ショックはあまりに大きく生きていけるだろうかと私なら自信がない。
 
その後、東京の空襲が激しくなり郷里広島に帰るが翌年8月6日、原爆投下!
実家は爆心地から1・2キロの地点で、便所に入ったところを被爆、幸い命に別状はなく家族の者と逃げ出したが、この時に見た惨状を克明に記録した「原爆被災時ノート」を元に書かれたのが名作『夏の花』で何しろ作家の眼を通したものだけに生々しい。
戦時を生き延び戦後も執筆活動を続ける傍ら年下の後輩、遠藤周作と親しくなる。
遠藤は痛く原を尊敬し常に生活のことまで心配していたほどで、こんな一場面を書いている。
 
古ぼけた鳥打帽をかむったまま、原さんは子供の絵を長い間見ていた。子供が飽きて向こうにいっても、まだその絵を見ていた。
 
その原が中央線西荻窪駅から200メートル辺りの線路に身を横たえ轢死体となったのは昭和26年3月13日午後11時30分過ぎのこと。
あまりにも哀しい一生だった。
 
宵ノ闇ハ酒場ニテ
少女ラト笑ヒシガ
土手ノカゲ
線路ノ闇ニ枕シテ
十一時卅一分
頭蓋骨後頭部割レ
片脚切レテ
人在リヌ
 
詰襟ノ福ヲマトヒ
ヨキ服ハ壁ニカケ
友ノタメ残シ置キシハ
ヌケガラニ似テ
「崩れ堕つ、天地のまなか一輪の花の幻」
人死ニヌ
サリゲナク別レシ友ニ
書キ置キハ多カリキ
 
「三月十三日夜ノ事」
 
どんな気持ちで身を横たえたのか、何事にも臆病だった原民喜なのに。
 

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