愛に恋

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女優 岡田嘉子 升本 喜年

戦前の樺太は南半分が日本領で、日露戦争の勝利によって外務大臣小村寿太郎がロシアの全権、ウィッテから粘り強い交渉の結果、勝ち取った領土だったが内地の人からみれば極寒の地、最果ての地というイメージが強かったと思われる。

北緯50度の日ソ国境は東西に渡って131キロ。
蝦夷松とトド松に覆われた国境線は幅15メートルの開伐線で区切られ、その線上に東から遠内、武意加、半田沢、安別の四カ所に天測境界表示が立ち日本側には菊花章ソビエト側には帝政ロマノフ王朝の双頭鷲の紋章、この四地点だけが郵便交換の接点で道路が通じ付近には国境警備隊詰所があった。

昭和12年12月、南京陥落後の東京では連日のように提灯行列が行われ帝都は活気に満ちていたが暮れも押し迫った27日、上野駅東北本線の青森行急行二等寝台車に乗車する不倫関係の男女は共に既婚者。
見送るのはユリッペとあだ名された女の亭主の妹で、計画は極秘裏の裡に進められ逃避行の旅は始まった。

翌朝、青森から連絡船で北海道に渡り、函館から稚内行急行に乗り、28日午後10時38分旭川到着。
翌29日、再び急行で稚内を目指し30日午前6時48分着。
連絡船で宗谷海峡を渡り樺太大泊港に着岸したのは30日夜の9時過ぎ。
目指すは樺太の敷香という町で人口7500人、日本領北部では最大の町で旅館も数件あり列車で行ける最北端の終点地、予定では30日に敷香着だったが遅れもあって、この日は途中駅の豊原で一泊、予定が狂った。
 
駅前には数件の映画館が立ち並び、娯楽の少ないこの地にあって町の人はよく映画を観ていたので宿泊女性の身元が直ぐに噂になってしまった。
翌日の大晦日は朝7時50分発敷香行に乗車。
女性は黒のスキー帽にサングラス、男性は大きなマスクにマフラーという出立ち。
発車して間もなく一人の見知らぬ男に声を掛けられる。
 
岡田嘉子さんでしょう」

差し出された名刺には樺太日々新聞社、脇坂郁生とあった。
昨夜、駅前でバーのホステスが嘉子を見付け、それを聞き付けた新聞記者が早々に遣って来たという予想外のことを惹起せしめてしまった。
岡田嘉子はトーキー以前、無声映画時代に舞台女優から映画界に移り日活、松竹と渡り歩いたスターで、気が強く我儘で問題の多い女性だった。

嘉子は全国津々浦々知らぬ者とてないほどの有名人で連れの男は演出家の杉本良吉。
既婚者の嘉子には別の男性との間にも子供がいたが、杉本にも病弱な妻があり数年前には治安維持法違反で検挙、拷問の末の仮出獄で、出獄中の者が旅行する場合は刑法に定めるところの「仮出獄思想犯処理規定」により保護司に対し事前に行き先、日程、目的など報告する義務があったが杉本はアイヌ研究のためと称し樺太の敷香までの日程を報告してあった。

晦日の夜、敷香着、山形屋という宿で一泊。
宿の女将に国境警備隊への慰問話しを打ち明け手配を整えてもらう。
正月二日、バスと馬橇を乗り継いで66キロほど北上し気屯という所で一泊。

翌日、最終目的地の半田沢へ向けて橇を走らせる。
気温は零下30度、積雪60センチだが橇は順調に走り午後二時過ぎ半田沢警部補詰所に到着。
所員四名と暫く歓談した後、国境付近を是非見学したい旨、所長に頼み、巡査二名をスキーで同行させ国境線手前400メートルを条件に承諾を取り出発。

初めこそ巡査らと国境付近を視察していたが、途中二人は巡査の注意勧告を振り切りソ連領に無断越境。
以来、杉本と嘉子の消息は戦中戦後を通じて途絶えた。
二人を待っていたのはモスクワへ行って演劇を学ぶなどという幼稚な幻想ではなく過酷な現実であった。
三日後、身柄はソ連内務人民委員部に引き渡され赤軍本部へ護送、亡命者としてではなくスパイ嫌疑で身柄は拘束、厳しい尋問が待っていた。
甘い夢を打ち砕くように泣き叫ぶ嘉子から二人のロシア兵に腕を取られ強引に引きずられて行く杉本が最後に叫んだ言葉はロシア語に堪能だった彼らしい「ドスピターニャ」だった。

それは「さよなら」という意味で、嘉子が杉本を見た生前最後の姿。
戦後、一時帰国などして映画や著作など忙しい日々を送った嘉子だったが何故、自分だけが助かったのか、どんな取引があったのか堅く口を閉ざしたまま真相を明かにすることはく、杉本の銃殺をいつ知ったかについても遂に語ることはなかった。
全ては墓場まで持っていくの諺どおりの人生だった。