ポツダム宣言第九条には次のような項目がある。
「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的且生産的な生活を営む機会を得しめらるべし」
終戦時の海外在留邦人は約600万人。
1946年6月2日までに早くも3,267,969人の日本人が帰国を果たし、残る2,758,398名の邦人も順次帰国出来るはずだった。
しかしロシア地域の千島諸島、樺太からはただの一隻も帰国船が来なかった。
ソビエト側に抑留された邦人は民間人を合わせ250万人を上回る。
彼らはどうなったのだろうか?
1945年の冬は特に厳しく終戦以降、年末までに272,349人が死亡。
捕虜の数があまりに膨大ゆえ受け入れ態勢が整わず宿舎の供給率は20%未満。
夏に終戦を迎えたため禄に冬支度もないまま飲料水や食糧、休憩もなしに2千キロも歩かされた例もあるとか。
文隆氏は1945年8月19日に軍事捕虜となり10年以上もの間、15か所の監獄、収容所を盥回しにされ死を迎える。
反共思想の持主だが、彼本人はソ連侵攻の思想はなく軍事計画に携わったこともない。
文隆氏は確かに五摂家筆頭の御曹司だが30歳で中隊長になったばかりの低い身分。
規律厳格な日本軍ではいかに名家の出身といえども簡単に出世は出来ない。
何故か?
ソ連側の資料によると帰国させれば数年後には親の跡を継ぎ必ずや首相になり親と同じことをする故に一見、死刑に等しい25年の刑。
スパイ行為、反革命陰謀、反ソ行動と濡れ衣を着せ近衛だけは絶対に帰還させない方針のようにとれる。
彼はあまりにも収容所の実態を知り過ぎ、その男が首相になって将来我々の前に現れる。
それは断じて避けたい。
1955年6月、ロンドンで日ソ国交正常化交渉が始まったときソ連国内にはまだ2,378人の戦犯が収容されていた。
文隆氏本人は全く知らなったことだが本国では「近衛を返せ」という運動が沸き起こっていた。
首相鳩山も日ソ交渉で「近衛を即刻返せ」と迫っている。
しかし1956年6月15日、突如、イワノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村の第48号軍事捕虜収容所に文隆氏は移送される。
ここが彼の終焉地となる。
この時点で文隆氏は日ソ交渉が始まったことだから本年中には帰国の見込みがあると家族に手紙を書いており、長い収容所生活にあっても比較的健康状態は良好で過去9年間の診断書にも特段変わったことは書かれていない。
がしかし10月26日、突如カルテには、
「第三度高血圧症、腎硬化症」
とあり、29日なると
「左半球脳出血、後頭部に強い頭痛、めまい、食欲不振、不眠。血圧240/160、脈拍115」
だがどこにも脳出血に関する記述はなく、いったい27日から28日の深夜に何が起こったのか。
最終カルテ「結果欄」には。
「10月29日午前5時0分死亡」
10月30日解剖所見。
スターリンは言う。
「知り過ぎた者たちはいずれにせよ長生きせず、天授を全うしない」
文隆氏だけは特別に墓地発掘と遺体収容が許され本国より夫人が来て荼毘に付し持ち帰った。
運命の分かれ道でしたね。
「ソビエト極東地域は日本側から攻撃されることはない。1941年9月14日」
いずれにしても、その全ての事案に近衛文隆大尉は関与しておらず帰国不受理は納得し難く同情に堪えない。
極寒の地で収容され多くの犠牲者を出したシベリア抑留。
衣食住もままならず強制重労働に従事させられる苦役。
私ならとても生きては帰れまい。
風化させてはならない事実だ。