甘粕正彦 乱心の曠野 佐野眞一

 
ペリー来航後、世間を騒がせ、または驚愕させた事件がどれほど起きたか知らないが、大正12年の甘粕事件ほど近代史上の謎を残した大事件も珍しい。
大逆事件で左翼勢力が一掃され、生き残った最後の大物、大杉栄と妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年(6歳)が東京憲兵隊本部内で虐殺された事件は世間の耳目を一挙に集めるには充分な事件だった。
 
広く主義者として名が知られていた大杉と、彼を殺害したとされる甘粕憲兵大尉。
古来、加害者と被害者が共にこれほど有名になった例も稀で、果たして甘粕は本当に3人を絞殺したのか。
甘粕がこれほど有名になったのは単に主義者殺しの烙印を押されたからではない。
満州国建設で果たした役割。
満映の理事長としての実力。
以前、中国では昼は鄧小平が支配し、夜はテレサテンが支配するなんていう時代があったが、この言葉の語源は、昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配するに由来している。
しかし、人殺しと言われた甘粕がなぜ強大な権力を持ちえたのか。
 
本書は、微に入り細を穿ってこれでもかと事件を掘り下げ、甘粕に関連した殆ど全ての人を洗い出し、その来歴を追うことによって真実の甘粕像と事件の概要をつぶさに検証している。
もうなんと言うか恐ろしいほどの執念で関係者の遺族を探し出しインタビューを試み、ポアロもやホームズも脱帽するぐらいの究明力だ。
 
前半は大杉殺害の経緯から裁判記録など。
後半は出獄後、満州に渡り理事長になって終戦を迎え、自決に至るまでの長い道のりを永遠と外堀から埋めていくように緻密な調査結果を記述していく膨大な作業。
読む方も疲れる。
 
自決に至るその日まで、甘粕は事件の真相を明らかにせず墓場まで持って行ってしまったが、戦後長らく行方不明になっていた死因鑑定書が見つかったことで、裁判で解明されたかに思えた大杉殺害の供述の矛盾が露呈し、軍を庇って一人罪を被り服役したのではないかという疑念も出てきた。
 
宗一少年殺害の経緯に迫った弁護人と甘粕の答弁は生々しい。
弁護人は甘粕に詰め寄る。
 
「かくも子供を愛する被告が、わずか7歳になったばかりの子供を殺害するとは、いかなる理由か。部下を庇っているのではないか。裁判は陛下の名に於いて行うものであって、神聖でなければなりません。しかも私はあなたの母上から頼まれました。あの子に限って子供を殺すはずがない。このことだけは絶対に真実を述べるようあなたから伝えて下さいと、涙を流しての御依頼です」
 
傍聴席は思わぬ展開にどよめき、甘粕の答えを固唾を飲んで見守ったとある。
甘粕はうなだれ、口を閉ざし、やがて涙あふれ出す。
ハンカチで涙を拭き取り弱々しい声で言う。
 
「度々申し上げた通り、私が子供を殺したのは事実であります。そして無意識でありました」
 
弁護人は一段と声を張り上げ迫る。
 
憲兵大尉という高等官にあるものが、罪なき子供を殺害したとあっては、あなた自身の不名誉であるばかりか、帝国陸軍将校全体の名誉にかかわりますぞ」
 
甘粕は堅く佇立したまま答えない。
答弁はなおも続くが結局、甘粕は嘘をついたことになる。
死因鑑定書が全てを物語っている。
解剖が行われたのは大正12年9月20日
甘粕証言では後ろから首を絞めたようになっているが鑑定書には次のように記載されている。
 
「男女ニ屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力ニ依ルモノナルコトハ明白ナルモ前ニ説述セル如キ理由ニ依リ此ハ絶命前ノ受傷ニシテ又死ノ直接原因ニ非ズ、然レ共死ヲ容易ナラシメタルハ確実ナリ」
 
つまり撲る蹴るの暴行を受けたことを示している。
対局の立場にあった大杉と甘粕は、大地震で揺らされ磁場を狂わされた磁石のように急接近し、大震災から半月後、不幸な遭遇をしてしまった。
 
ソ連軍迫るなか青酸カリを飲んだ甘粕。
急を聞いて駆けつけた赤川孝一、それは赤川次郎の父親だった。
 

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