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「上海東亜同文書院」風雲録―日中共存を追い続けた5000人のエリートたち 西所正道

 
去年、長い間探しあぐねていた父の引揚げ記録が本籍の県庁に保管されていることが分かり、早速取り寄せてみた。
そこに書かれていた父直筆の「引揚状況等に関する申立書」を見て驚いた。
昭和12年8月、「軍からの徴用で上海東亜同文書院中退」とあり、さらに「特務機関情報部に徴用さる」と書かれていた。
特務機関に所属していたことは子供の頃から聞かされて知っていたが、上海東亜同文書院といえば難関のエリート校と知られる名門で多くの文献に出てくる有名大学だ。
 
終戦と共に消え去った同大学の書類は密かに持ち出され現在は愛知大学が保管し上海東亜同文書院記念センターとなっている。
その愛知大学に先日問い合わせ、担当委員の人といろいろやり取りしたが、当方の調べによると、さらに絞り込んで国立国会図書館に或いはと思われる文献が存在してるような記録を見つけ、さあ、これからどうしようかというところだが、取り合えず、上海東亜同文書院に関する書物を少し読んでみようと買った本が今回のものだが、著者は同大学の同窓会名簿を元に卒業生のその後を追っている。
 
東亜同文書院は、1901年の創立から1946年の教職員、学生の引揚げをもって閉学。
全卒業生は四千数百名で商社、外務省、政界、大学、マスコミとあらゆる分野に巣立ち錚々たるメンバーが名を連ねているとある。
しかし、残念ながら我が父はこの名簿の中に入っていない。
 
祖父は京都友禅の職人だったという話だが、大正初期、何を思ったか大陸へ渡り、蘇州で生まれたのが次男の父で、戦争さえなければ或いは画家にでもなっていたやも知れる父の運命を狂わせたのが12年7月7日の盧溝橋の一発だったということになる。
支那事変勃発、さらに第二次上海事変と日中両軍は民族的全面対決へと発展して行くわけだが、資料を読むと父が軍から徴用されたのは12年8月とあるから正にこの時期と一致する。
上海在住だった父はこの戦闘を間近に見ていたのだろう。
ここから8年に及ぶ青春時代を懸けた長い闘いが始まるわけだが、無念遣る方無く負傷した父は戦後、恩給を貰いながらGHQの仕事をしていた節がある。
 
東亜同文書院は戦時中からスパイ学校と言われ逮捕されれば処刑の可能性もあったわけだが、当初は従軍通訳という肩書で徴用されたようだ。
父が何期生だったか分らぬが28期生が書いた記録によると当時の科目は以下のようになる。
 
簿記、会計学、銀行論、貨幣論民法、商法、経済原論、交通論、倉庫論、取引所論、金融論、貿易実務等だが、特質すべきは中国語で全学年を通じて毎日、中国語関連の科目がある。
例えば「華語会話」「華語」「日文華訳」など、確かに中国語が堪能だった父に当てはまる。
戦後、貿易関係の仕事をしていたという親戚の証言からも裏付けが取れるが、好きだった歴史や絵画は趣味だったのだろうか。
だが意外な科目もある。
 
『春秋左氏伝』『四書』『五経』『支那史』『支那小説』『支那経済事情』
 
愛知大学教授は東亜同文書院はビジネス・スクールだったと言っているが、以上の科目を見ていると確かにそう言える。
戦争がなければ将来の夢は何だったのだろうか?
しかし、歴史の授業がないわけでもない。
 
秦の始皇帝、漢の劉邦、楚の詩人屈原、近代では孫文、段祺瑞、呉 佩孚、魯迅を教えられたとあるから歴史好きはこのあたりから来ているのか。
僭越ながら今回はごく個人的なことを書いているがお許し願いたい。
家系のルーツが書物の中にあるかもと思えば調べざるを得ない。
その手掛かりが散見できる条がこれ。
 
盧溝橋事変の一か月後、軍から書院に対し「学生を通訳として従軍させるように」との要請があったのだ。大内院長は最初否定的だった。「学生は学業に専念すべきだ」というのが持論だからである。学校サイドの議論は分かれた。しかし、最終的には派遣せざるを得なくなり、9月、34期の学生の中から80人が戦場へと向かった。
 
これだ、正にこれに違いない!
さらにこんなことが書かれている。
 
昭和11年10月、亡くなった文豪魯迅の亡骸を葬送しながら、激しいデモストレーションを行う中国人青年たちは、同文書院の近くを通過し、万国公墓へと向かい横断幕を掲げながら <打倒!日本帝国主義>とシュプレヒコールを繰り返し、それを同文書院の生徒は見ていた。
 
ということは、父も魯迅の葬送を見ていたのか?
魯迅と親しい内山完造が上海で開いた内山書店は家から学校への通り道だったと親族の証言もあり、よく本を買いに行ったらしいので或いは魯迅と邂逅したか!
 
何はともあれ本書は戦後活躍した同文書院の卒業生回顧談に満ちている。
出世、栄達した人たちを羨むわけではないが、重症を負い帰還した父は昭和20年代まではそれなりに横浜で活躍したようだが、30年代に入ると徐々に歯車が狂いだし破滅への道を歩みだした。
私個人は誰を恨むわけでもなく、今更、あの戦争さえなかったらなどと言っても仕方ないが、我が一族に限らず歴史の大きなうねりに翻弄され明日の行方も知らぬ浮き世船とあっては、大陸に取り残された膨大な数の邦人たちはさぞ不安な毎日だっただろうに。
 
上海在留邦人は約5万人。
町には国民党軍や八路軍が入って来て大変なことになっていただろう。
記録によると、一族11名は全員無事帰国したが、廃墟となった故国を見て如何ように思ったことやら。
戦後生まれの私はそれらのことが追体験出来ないだけに辛酸を舐めた親世代の苦労が偲ばれる。
私が今日あるのも、父が経験した必然と偶然の重なり合いの産物だろう。
ルーツへの拘りが人一倍激しい私にとっては貴重な本だったが、まだまだ東亜同文書院に関しては多くの書物があるので読まねばならぬ。
 
 
 

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