藤田嗣治 異邦人の生涯 近藤史人

 
 後世の人から見ると天才クラシックの作曲家や画家は独創力に優れ鑑賞する者を圧倒するが、どういう訳か巨匠同士の間では互いに認め合わないことがままある。
例えば藤田嗣治黒田清輝と画法が合わず竹内栖鳳にも受け入れられず佐伯祐三とも没交渉を保ち独り孤高の「乳白色の肌」を生み出し1925年、レジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド一世勲章を貰い時代の寵児と変貌してゆくが逆に藤田ほど日本と海外の評価が異なる画家も稀だと著者は言う。
藤田の死後、夫人は「正しく評価しない以上、忘れてほしい」とまで言い切っている。
 
藤田の家系は維新前までは家老の役職で父は森鴎外に代わって軍医総監を務め、小山内薫は従兄、実兄が児玉源太郎の娘と結婚するという華やかさだが本人は5回の結婚を経験しながら子供には恵まれなかった。
 
狂乱の20年代は多彩極まる交遊関係だったが渡仏した直後には貧困に喘ぎ、若き藤田は一日、14時間ほど勉強し、仕事の際には18時間筆を持つこともあったという。
トレードマークのおかっぱもファッションとしてではなく散髪に行けなかったことが由来で、3日間、水だけで過ごした日など過去の苦労を忘れない為の名残りだとか。
その貧しさの体験からかこんなことを言っているいる。
 
人間は一人ではどんな天才でも貧しくなるばかりだ、本当の孤独は人間を駄目にする
 
それ故の乱痴気騒ぎだったかどうか分からぬが藤田はいくら遊んでも仕事だけは毎晩休むことはなく、生み出された「乳白色の肌」はどのようにして描かれたのか現在も解明されていないらしい。
 
「流れるような日本画の伝統的な線の魅力を、西洋の油絵の上に活かそうとした藤田は、そのために、今の専門家にも解明しきれない技法をあみ出した」
 
その藤田が帰国後に描くことになった戦争画は圧倒的スケールでパリ時代とは画風が一変、別人かと思わしめるほど凄惨で生々しい。
 
 
 
   昭和10年勃発の日ソ国境紛争「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」
 
それが起因してか戦後、画壇では戦犯指名の筆頭が藤田、世間の評価は!
 
「戦争そのものに無条件に共感する幼稚な戦争画家」
 
というものだが、戦争責任の追究を怖れた日本画壇の勇み足か藤田はまるで生贄のように世論から叩かれ謹慎さえ促されている。
GHQの思惑に関係なく日本美術会は独自に戦犯リスト作成、槍玉に上げたことなどに嫌気がさしてか藤田は日本を離れフランスに帰化
 
しかし1947年2月、GHQが公表した戦犯リスト1067人の中には画家は一人も入っていなかった。
日本を離れた理由として妻に残した言葉には・・・
 
「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」
 

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