大久保利通暗殺―紀尾井町事件の基礎的研究 遠矢浩規

 
うふ、 あまり一般向きな本ではないが「衝撃の真実」なんて言われると気になる。
釣られるようにまあ読んでみるかとレジに向かってしまった。
 
維新後、大久保利通が暗殺されるまでに既に3人の高官が殺害されているが、それだけ日本史は暗殺の歴史と言ってもいいのだろう。
 
明治2年1月5日、参与の横井小楠
同年11月5日、兵部大輔、大村益次郎
同4年1月9日に参議、広沢真臣
 
大村益次郎については司馬遼太郎の『花神』に詳しいが、広沢参議に至ってはどうも真犯人とは別人を逮捕拷問したような形跡がある。
小楠は応戦した脇差が今も記念館に残されており事件として不明な点はないと思う。
大久保利通に関しては、その功績を今更論じることはもうない。
ただ「紀尾井坂事件」だけを採り上げている本はおそらく皆無だと思うが。
本書の驚きは作者が若干23歳の若者でノンフィクションや伝記とは違う学術論文という点だろう。
確かに良く調べている。
 
暗殺は明治11年5月14日、大久保が馬車で私邸を出発したのが午前8時頃。
御者と馬丁だけで、数日前に暗殺の予告書が自宅に届いたにも関わらず豪胆にも護衛を付けなかった。
刺客は島田一郎、長連豪、脇田巧一、杉本乙菊、杉村文一、浅井寿篤の六人。
テレビなどで見ると全員が刀で斬り掛かっているが実際は長刀は一本、廃刀令のためだと思うが他の5人は短刀だったと書かれている。
長刀は馬脚を斬って馬車を停めるために用いられた。
 
事件はおぞましいほど凄惨な暗殺劇で馬車から引きずり出された大久保は斬り創が42か所、突き創9か所、その内、約半分が頭部に集中している。
とどめは喉に短刀を串刺し、先端は首を貫通して地面に埋もれていたとある。
 
読んでいて息が詰まる。
丸腰の相手に6人がかりでここまでやる必要があったのか同情の念を禁じ得ない。
主犯格の島田一郎はこのように供述している。
 
「大久保が、余を睨みし顔の凄く怖ろしさ、苦痛故か、無念故か、何とも言われぬ面色は、今に忘れず」
 
しかし暗殺劇にありがちな逃亡は図らず全員が自首している。
持参した斬姦状の原本が現在、国立国会図書館憲政資料室に保存されているらしく是非一度、見てみたいものだ。
殺害されたのは大久保ひとりではなく馭者の中村太郎も惨殺され間一髪で逃げた馬丁の芳松が急を知らせて巡査の出動と成った。
事件の一報を聞いた伊藤博文の嘆きは大きく以下のような記録が残っている。
 
「伊藤は殊の外涙を流し、翁の非命を嘆息せり」
 
17日の葬儀は近代日本史上、最初の国葬級のもだったとある。
 
「巡査の数は三千人ほどなりしか、我々も路傍に伏して霊柩の通行を拝せしか、衆庶の蟻集沸が如く、錐を立つるの余地もなく、実に維新以来天下未曾有の盛大なる葬儀にてぞありし」
 
当時はまだ国葬という制度はなかったが、この一字を見ても大久保の勢威が偲ばれる。
図らずも事件当日の参朝前、伊藤博文に宛てて出した手紙、これが大久保の絶筆となった。
 
「昨日御約束申上置候通、大隈にも同時より参内之約束致置候付、御多忙と存候得共、暫時御参朝被下候様奉願候、此旨為念草々 五月十四日 利通 伊藤殿」
 
それにしてもである。
歴史に“もし”はないと言うが大久保存命なら初代総理大臣は伊藤ではなかったはず。
だが、悔やまれる。
井伊大老の時も暗殺予告があった。
あれだけの共の者が居ながらみすみす首級を挙げられたのは雪の為で全員が刀の柄、鞘ともに袋をかけていて抜刀するのが遅れた。
 
しかし大久保は何ゆえ護衛を付けなかったのか?
あれでは殺して下さいと言っているようなものだ。
不平士族の反乱が平定した今、大久保あっての明治政府ではなかったか。
護衛を付けるのが恥だと思ったか、来るものは避け難いと諦めていたのか、しかし、何れにしても愚策だろう。
潔いにも程がある。
西郷を屠ったあとだからこそ護衛を厳重にすべきだった。
大久保の決断ひとつで歴史が変わっていた。
後年、原首相、濱口首相も身辺を手薄にしたためまんまと暗殺された。
 
 
因みに紀尾井坂事件と呼ばれてはいるが、現場の正確な位置は分かっていなかった。事件後50年以上も経った昭和4年、80歳になっていた馬丁の芳松が探し出され、初めて現場の正確な位置が特定された。
それによると紀尾井坂の手前、清水谷の方が正しいようだ。
 

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