橋の上の「殺意」 畠山鈴香はどう裁かれたか 鎌田慧

 
結局、読了しても殺意があったのかどうか判然としないままだった。
この事件の不可解さは警察が事故死と断定した捜査を、母親鈴香が事故ではなく事件だと騒ぎ立てたことにある。
本人が加害者なら、警察が事故死として捜査終了したものを何ゆえ事件として再捜査するよう騒ぎ出すのか、まったく理解できない。
 
のみならず鈴香は自宅の電話や携帯番号を印刷したチラシに娘の写真を載せ情報提供を求め「知りませんか?」と言って配布している。
しかしながらこの事件は冤罪などではなく鈴香自身が娘の殺害に関与したことは疑いがない。
では鈴香のこのような行動をどう理解する?
 
豪憲君殺害は連続誘拐事件にして警察を動かそうというのが鈴香被告の主張だとか。
ますます解らない。
2件目の殺人事件を起こさねばそれで全て済んだのではないのか。
「事故」として処理されたものをわざわざ「事件」として取り上げてほしいと訴える真意。
そこにどんな理由があったか。
 
橋の欄干に座る我が子が恐怖を感じて覆いかぶさってきたところを鈴香は「突き落とした」と検察は主張、対する弁護側は「振り払った」と譲らない。
初めから殺意を抱いていたわけではないことは理解できる。
精神鑑定医は綾香ちゃん転落後、救助もせずに立ち去ったことを「解離性健忘」だという。
 
「解離性健忘」、初めて聞くが、その部分だけが抜け落ちたように記憶がないことらしい。
橋から「落ちた」のではなく「消えた」とでも解釈したのか、鈴香は家に帰れば綾香ちゃんは在宅していると思ったというような証言をしている。
それ故、行方不明、事故死、捜査願いと一連の行動は辻褄が合うと弁護側は主張。
 
著者は、そのような事情からして本件は2人殺害ではなく謂わば1・5人の殺人だと論じているが果たしてどうか。
実証として綾香ちゃん転落時に鈴香が尻もちをついたことを挙げている。
普通、人を橋から突き落とした場合、犯人は尻もちをつかない。
即ち、綾香ちゃんを引っ張り上げるようにして手が外れた瞬間、反動で尻もちをついたとなる。
なるほど、確かにそうとも言える。
 
しかしこの手の事件の真相を読むには書き手の心情、思想によって異なる場合も多々ある。
因みに作者の鎌田氏は死刑反対論者のような印象を受けた。
判決後、鈴香と文通した文面からそれとなく伺われる。
だが、読むほどに断を下すのが難しい事件には違いない。
 

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