愛に恋

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夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 植木等

はじめに。
同時代人の先輩に対しては当然、敬称を持ちうるべきだが、個人的な読書感想文なので敢えて敬称は略させてもらった。悪しからず。
 
中山秀征司会の『うちくる!?』という番組が一昨年だったか終了したが、あれはいつだったか、まだ飯島愛がアシスタントとして出演したいた頃で、ゲストに植木等谷啓が出演したことがあった。
その後、3人は相次いで、
 
植木等 2007年3月27日
飯島愛 2008年12月17日
谷啓  2010年9月11日
 
亡くなったので、彼此れ10年以上前の事になる。
それ以前、青島幸雄が2006年12月20日に亡くなり、葬儀場での植木等をテレビで見たが、何れにしても『うちくる!?』出演が彼を見る最後となってしまった。
生前、青島幸雄はこんなことを言っていた。
 
「植木さんの、あのバカ笑いがみんなを明るくした!」
 
そう、少し上向きで豪快に笑うあの顔、能天気でいい加減、それがまた良かった。
『ホラ吹き太閤記』で歌った作詞:青島幸雄、作曲:萩原哲昌の「だまって俺について来い」を聴いていると胸がすくような気分になる。
その植木等の父君、植木徹之助が今日の主人公、著者は倅の等。
 
その前に、既に故人となった芸能人の中には名随筆家と言われる人もいるが、失礼ながら植木等の文章は意想外に上手い。
随筆などものにしていれば、それなりに成功していたと思うほど、語彙も豊富で歴史的資料もよく読み込んでいる。
 
さて、父徹之助だが明治28年1月21日、総勢11人兄妹の5番目という子沢山の家に生まれ、小学校卒業後、縁故の関係もあって真珠王御木本幸吉の工場で働くことになった。
当時の工場長は評論家の小林秀雄の父というから驚く。
その傍ら美声を活かして義太夫語りを目指していたらしいが労働争議に巻き込まれ、大正デモクラシーの洗礼から社会問題に関心を持ち左傾化して行ったようだ。
 
貪欲な知識欲を持っていた徹之助は無政府主義たちの会合にも顔を出し、伊藤野枝辻潤、俳優大泉滉の父、大泉黒石大杉栄らと交流を持ったとあるが、大杉の印象はこのように書かれている。
 
茶系統の背広に派手な柄のネクタイを締めていた。
平素は口ごもる癖があったが、話が興に乗ると能弁になった。
講演よりは、むしろ座談の名手だったそうで、ヨーロッパの労働運動の状態、小さい船で日本を脱出した時の話、地方分権でなければ自由は保証されないということなどを説き来たり説き去って、おやじたちを魅了した。
 
その大杉たちが殺害された大正12年、11月に予定されていた東宮殿下(昭和天皇)御成婚に際して御木本に、冠、首飾り、胸飾り、腕輪、指輪、その他一切の装身具を制作するよう宮内省から指示があり、徹之助は冠の制作を任されたが、関東大震災で工場は閉鎖。
生活苦に追われながらも社会運動にのめり込んで行く。
極めて危険な行動だが、よほど強固な信念があったのだろう。
亀戸事件で共産党青年同盟の初代委員長の川合義虎が斬首される事件があっても堺利彦、山川均のパンフレットを売って歩いた。
 
大正14年治安維持法が議会を通るも徹之助の勢いは止まらず、袴田里見らと運動応援に出かけ、研究会には徳田球一講師として呼び、当時にあっては危険思想の持ち主ばかりと付き合っていたことになる。
更にはキリスト教を受洗し運動が忙しくなるにつれ健康を害し、肺結核で妻の実家、三重のお寺に引き込み、神と仏の関係が清算されないままに、昭和4年7月6日、真宗大谷派の僧侶となってしまった。
僧名は徹誠(てつじょう)、昼間はお年寄りに地獄・極楽を説き、夜は若者を集め社会主義を説く。
水平社の運動に共鳴し未開放部落問題に奮闘して行く徹誠を息子はこのように書いている
 
キリスト教社会主義親鸞主義と、おやじが次々、思想・信条を変えていく時、あまり深刻な内面世界の相克はなかった様子だったと、言う人が多い。
たぶん、そうだっただろうと思う。
 
そして昭和13年三重県下の人民戦線事件で検挙者83人を数える内に這入ってしまった。
思想犯として特高に逮捕され厳しい拷問が待っていた。
その様子も書かれている。
 
幅の広い腹巻き様の皮が使われた。まだなめしていない皮を胸から腹のあたりに巻き、止め金をガチャっとはめる。見たところ、皮チョッキを着たようになる。
そして、そのままの姿で水風呂につけられるのだ。皮は水を含むと急速に縮むので、キリキリと締め付けられ呼吸困難になって、おやじは気絶した。
道場に連れて行かれて、柔道の稽古相手をさせられ、警官が入れ替わり立ち代わり、おやじを投げる。おやじは鼻血を出して気絶するまで拷問が続けられた。
 
徹之助は通算、3年以上獄中にあった。
その頃の等の日課が恐ろしい!
 
早朝6時半に起きて、宇治山田の警察まで行き、おやじに弁当を差し入れる。
自転車で往復1時間はかかる。朝食をすませた頃「等君!」と、同級生が誘いにくる。連れ立って登校し、きちんと勉強して帰ってくると、すぐに檀家回りだ。檀家回りをすませて晩御飯を食べれば、またもう一度、宇治山田の本願寺別院まで、差し入れの時と同じ道を自転車で走らなければならない。
別院では数学、国語、歴史、地理を学び、そのあとは、お経の稽古である。
ひととおり勉強して寺に帰れば、深夜の12時だった。
 
それもこれも生活苦からで、息子を東京の寺で小僧として働かせながら中学に通わせようと決めていた母の決め事だった。
上京後、こんなことが書かれている。
住職は按摩の達人で、その住職から按摩を教わり!
 
毎晩、住職の体を揉むことになった。なにしろ、当時90㌔ほどもあった巨体に、小柄な私が取りつくのだ。しかも、夜10時頃から初めて12時になっても「もうよし」という声がかからない。こちらは時たま、ふーっと意識が遠のいていくほどの眠たさである。一方、住職はカーッ、といびきをかいて眠っている。この按摩が5年間、続いた。
 
ともあれ、本書は徹之助に対する情愛に満ちたもので、等は生涯を通じて父に逆らったことは一度もなかった。
ある時などは、家を買うからお前の貯金を全部持ってこいと言われ、素直に6万円差し出した。
徹之助の口癖は!
 
「要するに世の中のことで、どうにもならないってことはないんだ。歳月が経てば必ずどうになるんだ」
 
揮毫を頼まれると。
 
割り切れぬまま割る切れる浮世かな
 
またこうも、
 
「お父さん、仕事に行ってくるからね」
と言うと、おやじは、
「そんなに急いで行くこたあない。ゆっくりしていけ」
と、いつも言うのである。
「いや、そんなことしてたら遅刻しちまうよ。皆を待たせちゃうことになるから。一人で仕事しているわけじゃないからね」
そうなだめると、おやじは決まって、
「いいんだ。待たせておけ」
などと、命令口調で言うのだった。
私が外で仕事をしている間、おやじは家人に、
「等は、まだか。まだ帰らないのか」
と繰り返し言っていた。
そして帰るとおやじはいつも手を握り放そうとせず泣き出すのであった。
 
なんだか微笑ましいというか切ないというか。
その徹之助が波乱に満ちた生涯を閉じたのは昭和53年2月19日、最後の言葉は。
 
「ありがとう、ありがとう、おかげで楽しい人生を送らせてもらった」
 
本書は再販に拠るものだが、息子に一代記として纏められたものが上梓されて親としては、さぞ嬉しかろうに。
しかし今は、その息子も旅立ち、世の移ろいは実に物悲しく読む者の心を打つ。
 

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