先日、商店街のリサイクルショップに置いてある古本の事を少し書いたが、同じ商店街の花屋の店先にこれまた変わった取り合わせとでもいうように数十冊の古本が置いてある。
どれでも100円と超お買い得。
何で花屋に古本がと以前店主に訊いてみると、友達に頼まれたからという。
補充されている様子もあるので少しずつ売れているのは確かだが、あまり購買意欲の沸かない本ばかり、それでも時に偵察に行く。
しかし、先日、珍しく「おや!」っと思う本に出合った。
即ち今回の本『太宰治の辞書』がそれ。
これは最近の本ではないのか?
確か書店でこのタイトルを見た記憶がある。
奥付をみると案の定、2017年10月13日文庫初版とある。
しかし、太宰治の辞書とは何ぞや!
解説を読んでもさっぱり解からず。
名前はよく見るがこれまで著作を読んだことがない。
だが、タイトルがどうも気になるので買うことにした。
著者の経歴を見るに、何と、女性作家とばかり思っていたが昭和24年生まれの男性だった。
受賞歴も豊富で思った通りのミステリー作家には違いないが、ではこの本は?
作者には「円紫さん」シリーズというのがあり本書もその一環らしい。
では「円紫さん」シリーズとは?
解説によると。
大学で日本文学を学ぶ《私》は、恩師が同じであるという縁からファンであった落語家・春桜亭円紫と知遇を得る。知り合った席で話に出た恩師の不思議な体験について明快で合理的な説明を付けた円紫に対し、《私》はそれからもたびたび自らの身の回りで起こった疑問・謎を円紫に示す。円紫は、時に自らそれを解決し、時に《私》にヒントを与えて《私》自身による解決を促す。シリーズ開始当初は大学2年生である《私》が進行とともに時を重ね、成長していく成長小説の要素もあわせ持つシリーズである。
ということだが、主人公の「私」は主婦、その「私」とノンフィクション作家のように謎に迫って行く著者本人を最後まで混同して女性だと信じ込んでいた。
内容はというと。
時を重ねて変わらぬ本への想い……《私》は作家の創作の謎を探り行く。
芥川の「舞踏会」の花火、太宰の「女生徒」の〝ロココ料理〞、朔太郎の詩のおだまきの花……その世界に胸震わす喜び。自分を賭けて読み解いていく醍醐味。作家は何を伝えているのか。編集者として時を重ねた《私》は、太宰の創作の謎に出会う。《円紫さん》の言葉に導かれ、本を巡る旅は、作家の秘密の探索に。
ふん・・・、ともあれ円紫シリーズを読んでいないため暫くは何を言っているのかさっぱり分からず。
それでも諦めずに読み進める。
「なべて人の世の尊さは、何ものにも換え難い、刹那の感動に極まるものじゃ」
まったくその通りじゃ!
著者は早稲田大学の文学部卒業、かなりの博覧強記らしい。
俄然、こちらも奮い立つ!
が、はっきり言って良く分からない。
「私」はピエール・ロチをきっかけに芥川、太宰、三島、朔太郎らが絡む文学の旅に出る。
まず、ピエール・ロチだが芥川と同時代のフランス人作家で、『永島の漁夫』以外、読んでいないのでよく知らないが、ロチには『日本印象記』なる作があり、それを発火点に鹿鳴館を主題にした芥川の『舞踏会』という小説が書かれたというような事が書かれている。
それらを元に江藤淳は芥川を評して。
芥川の本質は理知ではなく抒情であり、体験の率直な告白によっては真実を語り得ない作家だった。
難しい評ですね。
続けて三島由紀夫の日記体で書かれた『小説家の休暇』というエッセイで芥川を。
芥川は本当のところ皮肉も冷笑も不似合いだったのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世を渡れなかった」
しかし、三島は太宰に関しては手厳しい。
太宰の持っている性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治された筈だった。
その後、著者は太宰の『女生徒』採り上げる。
『斜陽』が太田静子の日記を元に書かれているのは有名だが『女生徒』も有明淑(しず)という人の日記を元に書かれたものだという。
例えばこの一節。
キュウリの青さから、夏が来る
は、有明淑の日記ではこう書かれている。
晩御飯、お肉を焼いたりして、綺麗に作ってみる。キウリのサンバイもおいしく出来た。「キウリの青さから夏が来る」と云ひたい様な青さだ。
何だか分からないまま読み進めて来たが、どうも本書が求めているのは太宰が使っていた辞書は何だったのか、それをミステリータッチで「私」が探し歩くという内容なのかと思い始める。
話しを続ける。
『女学生』の中にロココ料理に付いての記述がある。
このロココ料理には、よほど絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私ぐらいのデリカシイが無ければね。ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて、内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃた。名答である。美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。だから、私はロココが好きだ。
ちょっと余談だが「生まれて墨ませんべい」という煎餅があるそうだが食べてみたい。
「生まれてすみませ」という太宰の言葉も山岸外史の従兄弟、寺内寿太郎という人の作品から戴いたものだとか。
27歳の太宰に萩原朔太郎の「夜汽車」を古本屋で教えたのも山岸。
最後の二行は特に有名!
ところも知らぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花
話しが飛び飛びになって申し訳ないが「華麗のみにて、内容空疎の装飾様式」という太宰のロココ定義は、どの辞書に載っているのか、太宰の創作ではないかという疑問を「私」は持っている。
どの辞書にも、それに似た定義がないからだ。
調査は徹底し、太宰が読んだかも知れない昭和初期の美術関係書を国会図書館で調べる。
そして!
明治45年に興文社から出た『西洋美術史』に気になる文章が。
「18世紀は一般に美術の弛緩時代」
「ロココ式に従い技巧に陥りたる」
「華麗と虚飾とのみにて何等の深意を含まず」
「多くは陳套なる型となりて含蓄頗る貧寒なりき」
これらが太宰の書いた、
「華麗と虚飾とのみにてな何等の深意も含まず」
と似ていないかと疑念を抱き、あらゆる文献を辿り探し当てたのが、何処に行くにも太宰が手放さなかった『掌中新辞典』なるもの。
それと同じものが朔太郎の生誕地でもある前橋県立図書館に存在し「私」前橋に。
奥付には大正13年10月1日発行とある。
文字通り掌の中に入るような小さな辞書との逢瀬、今回ばかりは支離滅裂のようなことを書いてしまったと反省しているので悪しからずお許し願いたい。
最後に作者の文章洞察力など優れていると思った点を三つ書いておきたい。
・偉い先生の文章でも、編集者としては、首をかしげる場合がある。専門家だけに、時に一般の読者に分からないことを、自明の前提として書いていたりもする。
そう、そこなんですね!
「自明の前提」
これはいい言葉だ。
・書き手の内にある混沌たる思いを、普遍のものとして差し出すのが書く者の仕事だ。
なるほど、いい表現だ。
・本は、いつ読むかで、焦点の合う部分が違って来る。
確かにそうだ、北村薫、優れた作家ですね。
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