愛に恋

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対馬丸 大城立裕

学童疎開船は非軍事の観点から戦闘行為には参加せず『戦時国際法』からいっても攻撃対象にはならないはずだった。
にも関わらず昭和19年8月22日22時23分、悪石島近海で敵潜水艦から3発の魚雷攻撃を受け海の藻屑となったが、この事件は国際法違反に問われることはなかった。
敵の艦長が学童疎開の徴用船とは知らなかったばかりか、運の悪いことに対馬丸には僅かではあるが軍人と軍需物資を載せていた。
 
乗船者1661名中、学童は800余名で生き残った児童はたった50名余りだった。
米軍の沖縄上陸は必ずあると踏んだ軍部は老人子供など非戦闘員を強制的に本土疎開させようと親を説得したが、沖縄戦といっても漠然として実感がわかず、我が子と離れ離れになるのには抵抗感があった。
更に沖縄近海には敵潜水艦が頻繁に現れることもあって親たちの決断を鈍らせた。
 
果たして安全に本土に渡れるのかどうか誰でも迷う。
しかし軍の意向もあり市長は校長に対し半強制的疎開を迫る。
海軍の護衛もあるということで親御さんたちも渋々同意。
しかし悲劇は起こった。
 
魚雷命中という衝撃は私たちには解らないが沈み行く船上から大人たちは無理やり子供を海に投げ込んだ。
 
「筏でも何でも掴まってとにかく船から離れろ」
 
それからというもの飲まず食わずで何昼夜も海中に浮いて救助を待つ。
多くの者が鱶に襲われ夜は寒く昼は直射日光に悩まされ、疲れて眠る者は打ん殴られて叩き起こされる。
睡魔は即ち死を意味する。
対馬丸撃沈の報が伝わるや親たちは大混乱。
敢えて疎開せず、翌年の沖縄戦まで残った人も数知れず。
行くも地獄、残るも地獄とはこのことか。
 

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