居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

クラシックホテルが語る昭和史 山口由美

 
戦争で都市を爆撃する場合、代表する高級はテルは好き好んで爆撃しないという説があるそうだが本当だろうか。
そもそも空襲がなかった奈良ホテルや箱根の富士屋ホテル軽井沢の万平ホテルはともかく横浜のニューグランドホテルが戦災に遭わなかったのは不思議だ。
マッカーサーが厚木に降り立ち真っ先に向かったのがこのグランドホテル。
第一生命ビルも被害に遭わずGHQの総司令部になっている。
あながちデタラメの話しでもなさそうだ。
 
本書は山口由美なるノンフィクション作家によって書かれたものだが、全く知らない人で経歴を見ると曽祖父が富士屋ホテルの創業者とある。
それ故か、国内のクラシックホテルに留まらず占領政策の一環として日本軍によって接収された大東亜共栄圏内の名だたるホテルの歴史などを紐解き占領軍に拠って接収されるホテルの歴史と運命を掘り下げている。
 
本作には直接関係ないが松本清張の『昭和史発掘2』に佐分利公使怪死事件という項目がある。
昭和4年11月29日朝、公使が射殺体となって発見された事件で鑑定の結果、自殺と判断され落着されているが、仔細に読んでみるとどうも不可解至極。
自殺に見せかけた他殺と取る方が妥当な判断で松本清張もそのような推理を展開している。
事件の舞台となったのが箱根宮ノ下富士屋ホテルなのだ。
 
本書ではそれには触れず昭和19年11月末辺りから物語を初めている。
よく知られるように開戦要因の一つとなった「日米了解案」を巡っての交渉は第二次近衛内閣の16年4月からだが当初は野村駐米大使とハル国務長官の折衝だったが、更に来栖三郎が特命全権大使として加わり開戦ぎりぎりまで交渉は続けられた。
 
かなり以前、NHK特番でも取り上げられていたが前年の11月末にウォルシュとドラウトという二人のアメリカ人神父が来日し、欧州戦争が本格化する前に、太平洋の日米関係を正常化しておく必要で産業組合中央金庫理事の井川忠雄と陸軍省の岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐の4人による協議が非公式ながら始まっていた。
そして纏められたのが「日米了解案」。
この案に政府や軍部も同意し、日米交渉は進展するかに見えた。
 
然し、思わる障害が立ち上がった。
ソ連、ドイツ、イタリア歴訪から帰国した松岡外相が猛反発。
日米了解案は三国同盟の趣旨に反するというのが理由だった。
従って近衛は内閣を解散、松岡を外した第三次近衛内閣の発足となり交渉は進められたが7月25日、米側は日本資産の凍結。
28日、日本軍、南部仏印進駐。
それらの足取りを追って著者はウォルシュが16年8月24日早朝に箱根富士屋ホテルに到着した記録を見つけ滞在期間は9月2日まで。
アメリカにいるドラウトとの間で緊迫した電報の遣り取りをしながらゴルフ、読書、書き物をしていたと『井川忠雄 日米交渉資料』は伝えている。
 
8月17日、野村大使との会談で交渉再開を提案したルーズベルトの提案はアラスカでの巨頭会談。
戦争回避に向けた両者の最後の歩み寄り。
その準備のため近衛首相は富士屋ホテルで、井川、松本重治、牛場友彦、西園寺公一を集め会議の際の案を練る。
しかし、9月1日、ドラウトからウォルシュへの電報には「今後、通信できなくなった」とあり、更に10日の電報には「井川渡米の必用なし」とある。
開戦阻止の希望が消えた瞬間だった。
それらの舞台となった富士屋ホテル、または隣接するオーナーの別荘、午六山荘でのスリリングな模様を著者は克明に抉り出している。。
 
ところで全国にクラシックホテルが何軒あるか知らないが本書には数多くのホテルが登場する。
日光の金谷ホテルもそうだが、この手の有名ホテルには大抵憲兵が現れたとある。
事もあろうに政府の要人ばかりか総理の動向まで見張っていた。
さて、冒頭にも書いたが有名ホテルには本当に空襲がなかったのか?
例えば箱根だが終戦まで確かに空襲はなかった。
意図的か偶然かそれは判らないが仮に意図的だった場合の理由は。
記録によると箱根には3,119人の外国人が滞在していた。
それを知ってアメリカ軍は敢えて爆撃の対象から外したのだろうか?
更には占領後の司令部、または士官、将兵の宿舎として使うため。
 
箱根にあった強羅ホテルについても少し触れておく。
現在は、その姿を留めていないが終戦工作の舞台としてたびたび登場することで有名なホテルだ。
昭和16年4月、松岡外相がモスクワで調印した日ソ中立条約を20年4月5日、ソ連は残り期間、一年となった時点で不延長を通告してきた。
ドイツ降伏後、3か月以内に対日参戦を行うとヤルタ会談での密約があり、それを全く知らない日本政府はソ連駐日大使マリクと広田元首相を和平工作のため秘密裏に接触させることを計る。
戦争継続派にしても本土決戦はソ連参戦がないことが絶対条件。
 
東郷外相は広田に「たまたま」を装って強羅ホテルに訪問することを指示。
これは駐ソ大使、佐藤尚武が言うようにまったく馬鹿げた交渉でソ連を仲介役に選ぶなど明らかに東郷外相の判断ミス。
然し「たまたま」のシナリオは6月3日に第一回折衝があり三回目は同24日、続く第4回目は29日、東京のソ連大使館で行われ、政府は近衛元首相を特使としてモスクワ派遣を提案したが実現しなかった。
ソ連を仲介役に選ぶということが如何に非現実的なことか気付かないところに当時の政府の哀れさが伺える。
その強羅ホテルも接収の時代を経て平成10年、その役割を閉じた。
 
さて、私が間近で見たクラシックホテルといえば横浜ニューグランドホテル、愛知県の蒲郡ホテル、それに奈良ホテルしかないが、その奈良ホテル、門前の小僧ではないがあまりに敷居が高いので面前で見るだけ、中に入ったことは一度もない。
本書を読むまで知らなかったが終戦翌月の9月まで、ここにはフィリピン亡命政府の本部だったらしい。
ラウレル大統領夫妻を始め、閣僚ら17名が滞在していた。
現在「桜の間」には1969年に建てられた大統領の胸像があるというが、今度、行った時に見たいと思うがどうだろう。
 
 
この写真は確か17年大晦日に撮ったものだと記憶するが問題の横浜ニューグランドホテルの二階、正面入り口から続く階段を上がるとエレベーターがある。
マッカーサーが来館したのは昭和20年8月30日。
厚木に降り立った後、直ちにやって来た。
当時のフロントはこの左手にあり、時刻は午後3時過ぎ。
元帥到着前に先遣隊の米兵がピストルがないかと抽斗という抽斗を徹底捜査。
元帥の車が到着すると後続してきた空挺部隊がホテルの周囲に配置され、元帥は階段を上がり、この写真と同じ光景を見たことになる。
実に感慨深い。
それから7年間、日本はアメリカの占領下に入る。
元帥にとっては5度目の日本滞在。
二度目の妻との新婚旅行も、ここニューグランドホテルだった。
 
話しが長くなっているが満州を始めとして大戦中、日本軍が接収したアジア各地のホテルは必ず地域名の後に「ヤマトホテル」と付ける習わしがあったようだ。
例えば奉天ヤマトホテル、大連ヤマトホテル、その走りとなったのが初代満鉄総裁の後藤新平伯。
 
「何でもかでもヤマト・ホテルでなければいかぬ」
 
の鶴の一声。
占領下のホテル接収に伴い軍は日本のホテル企業に受託運営を任せ、その数31軒。
逆に日本占領と共に連合軍に接収されたホテルは全国で101軒。
因みに二・二六事件で反乱軍が拠点とした山王ホテルが所有者に返還されたのは何と昭和58年。
最後に富士屋ホテルの社長山口正造と日光の金谷ホテルの経営者、金谷眞一は兄弟だが正造が眞一に宛てた手紙にはこのように書かれている。
 
私の千石原の別荘に近衛公が来て居られる。そしてアメリカからルーズヴェルト大統領の密使が潜入して、今富士屋ホテルに居る。そして日米の感情の打開と、何とか平和を確保しようと、最後の努力が傾けられて居る。然しこれは、絶対秘密であって、軍部は全然知らない。軍部に知れたら、大変なことになる。これは誰にも話しては困る。
 
しかし、富士屋ホテルには憲兵が張り付き和平模索の道を探る首相と雖も監視される、そんな時代だったのだ。
 

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