愛に恋

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上海にて 堀田善衛

僭越ながら我が家系の事に付いて少し触れたい。
先祖は江戸期を通じ、代々の陣屋で参勤交代の折りなど御殿様に宿泊して戴く福井藩の名主だったが、何を思ったか我が祖父母は大正初期、生まれ故郷を捨て大陸に渡って行った。
満州事変はまだ先の話しで落ち着き先は蘇州。
その後、上海に出て一旗揚げたらしいが詳しい経緯はよく分からない。
祖父母は8人の子供に恵まれ夭折した女児を除いて全員が成人したが長女から末っ子までは親子程の年齢差がある。
内訳は四男三女で四人兄弟の内、上から三人までは軍事に携わった。
長男と三男は召集令状が来たので職業軍人ではなく一般兵卒だが、我が父には特務機関から徴用の通達が来た。
危険な仕事である。
身元がバレて捕まれば銃殺もあり得る。
魔都と言われ、あの動乱の上海で貴重な青春時代を戦火の中で過ごすことになってしまった。
 
第一次上海事変昭和7年1月のことだが、12年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに中国第二十九軍との間に戦端が開かれ、翌月13日、第二次上海事変勃発、日本人居留民は2万数千、これを護る海軍陸戦隊は4千、対する国民党軍は3万とも言われている。
この日本人居留民の中に祖父母以下、子供達が居たわけで、将にその8月、父は特務機関情報部に徴用され、以後、8年という長きに渡って我が一族は動乱の中国で大きな歴史の渦に否応なく巻き込まれて行く。
 
度重なる戦闘で同僚を失い自らも脚に重症を負った父、そして敗戦の憂き目。
一族は全ての財産を失い、父は逮捕され、迫る八路軍、無秩序な上海。
漢奸、戦犯の公開処刑、近づく内戦。
故に私にとって上海事変と敗戦は他人事ではなく、下手をしたら私自身が存在しなかったかも知れない、まあ大袈裟に言えば一族の存亡を賭けた戦いだった。
 
その混乱を極めた上海で同時期踏ん張って居たのが武田泰淳と本書の著者堀田善衛
堀田が上海に渡ったのは既に敗色濃くなった20年3月。
上海中をくまなく散策したとあるので或は何処かで父と邂逅したやも知れぬ。
二人の略年を見ると堀田は父より2歳下、武田は5歳近く上になる。
ところで作家堀田善衛だが、他の人も書いていたがどうも敷居が高い。
著書では以下の物が有名。
 
ゴヤ 全4巻
・定家明月記私抄
・ミシェル城館の人 全3巻
・ラ・ロシュフーコ公爵傳説
 
という訳で古書店で見つけたはいいが買うのを躊躇った。
「紀行エッセイの歴史的名作」とあるが、パラパラと捲るに如何にも難しそうだ。
しかし、買うに決め手となったのは終戦当日を上海で迎えたということで、あの日の上海の様子が分かるかも知れないと思ったから他ならない。
終戦を挟んで1年9カ月程上海に滞在していたらしいが、著者はそれから約10年後に再び上海を訪れ、本書が上梓されたのは昭和34年。
その時、同行した作家は他に中野重治井上靖山本健吉等7人。
 
井上陽水「♬海を超えれば上海」と歌っているが、その上海を一言で語るなら「万事混沌」ということになるが終戦が更にその混沌に拍車を懸けた。
45年8月のインフレは37年当時と比べ60万倍。
職員の給料はジープで運び、誰も紙幣を金だと思わなくなり頼れるのはアメリカドルだけという有様。
想像を絶するが大変な混乱期を迎えていたのだろう。
 
それより先、8月10日夜半、上海の日本人社会を襲った驚天動地の噂。
同盟通信社の海外向け放送が、日本のポツダム宣言受諾を放送。
翌11日、街には国民党政府の旗、青天白日満地紅旗がちらほら見え出す。
上海守備隊の第十三軍司令部の動揺は如何ばかりであったろうか。
何しろ太平洋戦線と違って支那派遣軍は負けている気がしないので尚更だ。
8月15日以降になると日本人が多く住む地区にこのようなビラが張り出される。
 
茫然慙既往
黙座慎将来
 
茫然トシテ既往慙(ハ)ジ、黙座シテ将来ヲ慎メ
おそらく父もこれを読んだであろう。
話しが長くなっているが更に進めたい。
戦時中、中国国内で最も中国人民に愛唱された曲のことが書かれている。
 
簡単に言えば漁師の歌だが、魚はとれず税金は高い。
漁師はまったく遣り切れない、年老いては網も破れかぶれで、この冬が越せるだろうかと嘆いているのだが、著者は、この曲の何がいいのかさっぱり理解出来ないと言っている。
精神や戦意を鼓舞するものではなく、ただ人民の苦悩が切々と歌われているのだが、どうなんだろうか、私も曲の良さが解らないので何とも言えない。
 
ともあれ敗戦は受け入れねばならない。
問題はここからだ。
敗戦という経験のない日本人にはさぞ屈辱だったことだろう。
ましてや敵国領内に取り残された邦人としてはこれから自分たちはどうなるのか、戦後生まれの私などは、その心理的動揺を推し量れない。
著者は書く。
中国人は「惨勝」と受け取り日本人は「惨敗」と受け止めたと。
 
惨憺たる現実を、いち早く「終戦」と規定して、国民の受ける心理的衝撃を緩和しようと企図した日本の支配層の、その、たとえて言えば隠花植物のような、じめじめとした才能にも、なるほど、と思わせられた。
 
あの時代、敗戦を外地で迎え生きて帰れたのは本当に幸いなことだった。
反面、終戦以降、亡くなられた方はお気の毒で言葉もない。
新京、奉天、ハルピンなどだったら運命はどうなっていたか。
とにかく、ソ連軍や八路軍に逮捕されてはたまらない。
父より1歳年長の近衛公の長男、文隆さんは19年、ハルピンで結婚し翌年ソ連軍に逮捕されシベリア抑留、そのまま帰らぬ人となった。
宇和島藩伊達宗城の孫で馬賊となった伊達順之助も処刑され、戦後、父は伊達順之助のテレビドラマをよく見ていたのを記憶している。
 
最後に大江健三郎は本書を24歳の時に読んで感銘を受けたとあるが、私が24歳でこれを読んだらおそらく理解出来なかったと思う。