愛に恋

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直木三十五伝 植村鞆音

 
直木賞に名を残しながらも、これほど読まれなくなった作家も珍しい。
現在ではまず、その作品を探し出すことから始めなければならず、彼の小説に巡り合うことは殆どない。
本書は直木の甥、つまり弟の息子によって書かれた初の本格的評伝。
 
その昔、私は直木三十五の読み方が分からなかった。
山本五十六の例もあるように、三十五も何か違う読み方があるのではないかと思っていたが、何のことはない、ただの「さんじゅうご」にすぎない。
元はと言えば直木三十一から始まった。
つまり自分の数え年に合わせて名前を繰り上げていったようだが菊池寛に注意され三十五で止めたらしい。
 
本名は植村宗一、大阪市南区内安堂町の生まれだが、いつだったか直木三十五記念館を訪ねたことがあった。
小さなビルの二階に拍子抜けするほどこじんまりした記念館で、これでは地元の人とて知らないのではないかと思えるぐらい目立たない。
第一、直木三十五生誕地なる石碑も立っていない。
因みに直木というペンネームは植村の植を二つに割っただけの名前。
身長168・5㎝、体重45・4㌔というからかなりの痩せ型である。
 
が、文筆活動は旺盛でとにかく大量の作品を残した。
大正後期から昭和初期にかけて絶大な流行作家だったらしく同時代人もそれを認めている。
日常生活では毎晩12時頃まで麻雀をやって、その後、早朝6時近くまで原稿を書く。
これでは健康を害するのも頷けるが、菊池に言わせると時代小説の分野を切り開いた作家で、代表作は『南国太平記』薩摩のお由羅騒動を書いたものらしいが私は読んでない。
 
とにかく直木は書きに書きまくり儲けた金は全て散財、生涯借金に苦しんだ一生だった。
直木を評してこんなことを言った人がいる。
 
「彼の内部には文化人と野蛮人、詩人と政治家、坊主と化学者、現実家と空想家、努力家と遊蕩人、貴族と市民、貧乏人と金持、道徳家と不道徳家、等々が同居している」
 
しかし菊池が創設した文藝春秋への執筆回数は芥川と直木がずば抜けており、二人の貢献度を記念して芥川賞直木賞は新設された。
いったいどれだけ儲けたか知らないが直木は人一倍稼ぎ、人一倍散財、普通なら収入に見合った生活を送るが、直木は支出に収入を合わせようと働く。
 
芸者、自動車、飛行機、チップ、刀剣収集、旅行、競馬、花札、麻雀と惜しげもなく使い、生活費は後回し。
直木をして曰く。
 
金もうけといふ事は、結局愛する女へやる事だよ。これ以外に最善の貨幣使途は無い。
人間は何かの悪をするものだが、女に与える時のみは悪をしない。
 
金に追われ、債権者撃退に頭を悩ませた生涯だった。
それにしても驚愕する膨大な執筆量。
質より量で早書きが得意。
編集、映画制作の傍ら妻と愛人の二重生活を維持し、芸者を追いかけ、囲碁、将棋、競馬に熱中。
 
そんな直木を襲った病は脊椎カリエス
結核からの二次感染で脊椎が結核菌に冒され背骨を中心に激痛が走り、病院嫌いで入院費もないことから昭和9年2月24日、享年43歳で亡くなった。
沢山の構想もあり執筆意欲も旺盛だったが多くの友人に看取られ旅立った。
その死を新聞は大々的に取り上げ追悼されたそうだが、今日の直木の知名度からして隔絶の感がある。
惜しむらくはいつの世も芸術家の早死にである。
 

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