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「満州国」見聞記 リットン調査団同行記 ハインリッヒ・シュネー

 
本書はリットン報告書ではなく飽く迄も調査団のメンバーだったハインリッヒ・シュネーによる『満州国見聞記』で、正確に言えば満州、日本、中国、朝鮮、シベリア鉄道見聞記と言った方が適切かも知れない。
だが、肝心の『リットン報告書』を読んでないので調べてみると2014年3月に『全文 リットン報告書【新装版】』なるものが出版されている。
英語と仏語からなる膨大なものでかなり読み応えがありそうだ。
調査団の目的は満州国は民衆の自発的運動によって成立したものかどうか?
裏を返せば関東軍の謀略ではないのかということになる。
 
昭和6年9月18日、柳条湖で関東軍南満州鉄道を爆破。
僅か5か月で満州全土を占領、宣統帝溥儀を担ぎ出し満州国を建設。
国家承認を巡って日本と国際連盟が対立する構図だが、その経緯を調べるために派遣されたのがリットン卿(英)を団長とする5人のメンバー。
リットン卿以外の人員は。
 
アンリ・クローデル陸軍中将(仏)
ヴィアーノ伯爵(伊)
マッコイ陸軍少将(米)
ハインリッヒ・シュネー博士(独)
 
この『見聞記』は具体的な5人の会議内容には一切触れず、それぞれの国土、民衆、人物、習慣なでがシュネー博士の目で観察されている。
団員が来日した頃は時あたかも血盟団事件と相前後する。
 
浜口雄幸首相が銃弾に斃れ、井上前蔵相、三井財閥総帥團琢磨、犬養首相と暗殺されていた時期。
日本ではまず天皇に謁見、以下首相、内田康哉外相、荒木陸相など要人と会見。
その後、京都、奈良、大阪、神戸と周り船で大陸に渡り中華民国では蒋介石汪兆銘、張学良と会い各都市を視察しているが連盟から派遣された代表団と雖も命の保証はなかった。
移動地域によって国民党軍、満州国警察、関東軍と沿線に厳重な警備がなければ安全を保てず流軍と言われる盗賊や匪賊の鉄道爆破、共産軍の脅しと悪い噂を聞きながらの調査だったがシュネー博士は各地での見聞を克明に記している。
中でも博士を驚かせたのは上海からのニュース。
 
われわれが奉天を出発しようとした数日前、上海から恐ろしい暗殺事件という身の毛もよだつようなニュースが入っていきた。
 
博士の言う恐ろしい事件とは昭和7年4月29日、上海虹口公園で起きた上海天長節爆弾事件のことでその貴重な映像が僅かだが残っている。
 
冒頭、一瞬だけに映る壇上の人を見てほしい。
おそらく右端、最前列の人は河端貞次居留民団行政員会会長、向かって左から第九師団長植田謙吉中将(?)、上海派遣軍司令官白川義則大将、第三艦隊司令長官野村吉三郎、上海公使重光葵
 
 
マイクの前に立つのが白川大将、奥から重光、野村となる。
河端会長は即死、白川大将は翌月死去、野村中将は隻眼、重光公使は隻脚になった。
しかし、映像を見ると当日、アメリカ兵も来ていたことを初めて知った。
 
その後、朝鮮で朝鮮総督宇垣一成大将、満州では本庄繁関東軍司令官とそれぞれ会見。
博士は満州の実情を鋭く見抜いていて中国人独自の政府の再建とは見なさず、殆ど例外なく敵対感情を中国人は持っていたと結論付けている。
さらに真の実力者は日本人官吏と見ている点も流石に団員に選ばれただけのことはある。
 
内田外相は満州国は民衆の自発的運動によって成立したものと力説していること、日本に於いては陸軍が非常に強力な権力を持っていることなど指摘しているが注目すべきは以下の記述。
 
西欧諸国と比較して、真の実権を誰が握っていのかが容易に分からない。
確かに日本では陸軍が大きな政治的な権力を持ち、荒木陸相が陸軍の理想を代弁する有力な人物とされていることは疑う余地もない。
そうはいっても、陸軍の理想を推進し、これを実行に移す原動力がどこにあるかは判然としない。
 
これは鋭い指摘だろう!
戦前の日本の権力構造は日本人でも分からないと言われるほど複雑なのだ。
 
今日では満州事変が関東軍の謀略だったことはよく知られているが、しかし居留民の保護という点ではどうがろうか。
博士は大連ー奉天間の旅行の時も多数の日本兵が同行したと書いているように当時の満鉄沿線はそれほど匪賊による襲撃が多かったようだ。
 
ともあれ報告書は北京で仕上げ、1932年9月4日、5人全員が署名し国際連盟理事会へ最短コースを通り提出された。
翌年、連盟は勧告案を採択。
 
・日本の軍事行動は自衛行動とは認めない。
満州国の建国は自発的な真正の独立運動によるものではない。
・この地域より日本軍が撤退することを求める。
 
32年10月1日、ジュネーブ、東京、北京で一斉に報告書は公表され、これに基づいて連盟は本格討議に入り、33年2月24日の総会でリットン報告書を全面的に採用し結論付けた。
 
満州国の承認を一切排除するものなり」
 
勧告案は42対1で採択され、ここに日本は連盟を脱退し孤立化の道を進み大東亜戦争へと向かって行くことになる。
激動の昭和は昭和3年張作霖爆殺事件に始まるようなものだが、果たして、日本はどのような選択をすれば良かったのだろうか。
破滅への道は、この昭和3年から始まったとしても、日本は何をどう選択していけば良かったのか私にはいくら読んでも分からない。
 

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