愛に恋

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伊藤晴雨物語 団鬼六

 
画家、伊藤晴雨なる人物を知ったのは、ほんのここ2~3年前のことで、それも思わぬところからその名を得た。
竹久夢二の愛人、お葉の経歴から伊藤晴雨にたどり着き意外だったのはお葉の過去。
本名は佐々木カ子ヨ(カネヨ)。
藤島武二伊藤晴雨竹久夢二のモデルを務めたとあるが、画家伊藤晴雨のことが知りたくて以前から探していた本。
 
晴雨は責め絵を得意とする人で簡単に言えばSM画家とでも言えばよいのか。
著者団鬼六だが、まさかこの人の本を読むことになるとは思いもしなかった。
昔から団鬼六川上宗薫は官能小説作家として有名なことは知っていたが、ポルノを小説で読みたいと思ったことはない。
 
しかし、責め絵の世界を芸術作品にまで高めた晴雨を書きたい衝動に駆られたのだろう。
果たして責め絵が芸術のなかどうか私には解らぬのだが。
現在では責め絵なるものを画いている人が居るのか否や知らないが、そもそもSMという単語の渡来はいつが起源なんだろうか?
更に、それを初めて活字化した日本人は誰なのか、少なくともこの本を読む限り晴雨はSMという言葉は使っていない。
因みに晴雨は明治15年3月3日~昭和36年1月28日の人。
責め絵の魅力はこのようなものらしい。
 
責められ、苦痛を噛み締める女体の悶えを描き、残酷破壊の美を出す
 
その晴雨が一躍脚光を浴びたのは雪中の裸女吊り責め絵図。
女房姉妹を湯文字一枚で凍てつく雪の中、裸で縛り木から宙づり。
(湯文字とは腰巻のこと)
その場に立ち会った演劇月報の編集長が、「責めを芸術化しようとする男」として記事に書いたことからジャーナリズムが沸騰。
苦悶する女体に一種の恍惚美を発見したつもりの晴雨だったが、見かたを変えれば猟奇事件。
 
月岡芳年も無残絵など描いているが、絵が全国に知れ渡るようになるまで本人はこんな変態的趣向は自分以外誰も居ないと思っていたらしく、作品が発表されるや否や、待ってましたとばかり晴雨の下にその手の好事家が多数現れた。
誰にも言えず密かに責め絵などを収集している者たちにとって将に同士を得たような心境だったのだろう。
獣姦、猿轡、緊縛、臨月近い妊婦との交合と際限の無い男の欲望を聞くうち、精々緊縛ぐらいにしか興味の無かった晴雨も人それぞれ色んな趣味があるものだと驚いたらしい。
 
更に晴雨を変態性欲画家と雑誌で知って全国から珍無類な相談が絶えなかった
晴雨は自らをこのように評する。
 
自己の魂に内蔵している変態性を趣味として、楽しめる変態性欲者に俺は貢献する変態画家だと自分を定義づけ、性的残酷を単に趣味として有する者を変態性欲者と一般に片づけることが出来るだろうか、その種の人間は、むしろ、普通一般の社会よりも、性に趣向を持つだけ、人間味のある人間といえるのではないか。
 
ところで肝心のお葉だが、どうも本文中には出て来ない。
晴雨、34歳の頃にお葉をモデルにしていたが、お葉は単なるモデル。
晴雨は生涯3度の結婚を経験し三番目の妻、君代についてこのように書かれている。
本名はキセ。
 
彼女は責め絵のモデルを悦んで引き受け、いつかは江戸刑罰史に出てくる処刑図を、それを自分好みにすべて女囚に置き換えて描いてみたいと思っていた晴雨は白木の柱で磔台を作り、逆さ磔というどぎついポーズを君代に要求してみたが、彼女は嫌な顔をしなかった。そんな残酷画のモデルを演じ、晴雨に飼育されていく内、君代も例外ではなく、責められる事にふと悦びを感じる女に変貌し始めたようである。
 
しかし、晴雨は出版直前に絵図が発禁処分になったり関東の震災と空襲で家財一切を焼失、戦後は出版活動は行わず昭和36年78歳で亡くなった。
 
晴雨は徹底した弾圧と迫害を受けているが、それに屈せず、嗜虐趣味を発揮したというのは強靭な精神力ではなく、その道において抜差しならぬ好色漢、それは病的なもので自分では制御することが出来なかったと著者は書いている。
 
ところで、晴雨は26歳まで包茎で悩んでおり明治41年春、手術をきっかけに欲望が一挙に爆発し積極的に責め絵を描くようになったらしいが、包茎手術はもう明治の後期には出来るようになっていたのか!
初めて聞いた。
その後、「責の画家」として公の行動を示すようになったのは大正4年から。
ところで『責め絵の女ー伊藤晴雨写真帖』なるものが今日残っているがAmazonで調べてみると3,450円とある。
 
 
この表紙の女性がセキだろうか。
これを買うにはやや躊躇いもあるが大正時代の責め絵の写真と言われればやはり好奇心が湧く。
『犯罪刑罰図譜』なる研究書も執筆しているがセキの存在あったればこその本だろう。
 

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