著者、加藤淑子とは加藤登紀子の母で1915年生まれ。
私の父より一歳年長で共に大陸で終戦を迎えている人。
故に私個人は引揚者の体験記には非常な興味があり、本書の存在は以前から知っていたが、去年、偶然にも古書店で見つけゲット。
我々日本人にとってハルビンと聞けば伊藤公暗殺の地として名高く満州国に行政権が移るまではロシアの租借地で、加藤淑子が夫幸四郎と結婚してハルビンで暮すようになった昭和10年10月10日には完全に満州国領になっていた。
白系とはボルシェビキの赤軍を嫌って亡命したロシア人で、謂わば無関国ロシア人のことを指すが、本書を読むと戦前の満州は実に長閑で平和そのもの、他国人との関係も円満で戦争さえ起きなければ何ら問題がないような感じに受け取れる。
こんな記述がある。
片手をピアノにかけて歌うシャリャーピンの姿は、レコードでしか聴くことのなかった我々には最高の喜びであった。
シャリャーピンとは亡命ロシア人の世界的オペラ歌手で、そのコンサートをロシア人と共に間近に見たと書いている。
これでは五族ならぬ六族共和ではないか。
夫幸四郎は、
「ソ連と戦争が始まりそうなので、家族は日本へ帰ったほうがよい」
と言われ27日夜、ハルビンを立つことになったが無理もない。
既に独ソ戦は始まっており、41年7月に行なわれた「関東軍特種演習」は、実際に単なる軍事演習ではなく、関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策で独ソ戦が有利に進展した場合、武力行使で北方問題を解決するとの方針を御前会議で決定していた。
しかし8月9日、ソ連が参戦、淑子が切符を手に入れたのが11日。
幸四郎からの便りで、
「空襲警報が鳴らずに空襲があればソ連だと思え」
正式に引揚げ協定が成立したのは21年7月、帰国に際して持ち帰ることの出来る金額は一人千円。
子供が三人居るので四千円ということになる。
ところで個人的なことになるが我が祖父母ら一族、約10人が帰国を果たしたのはいつだったか書類を調べてみると。
右ハ昭和二十一年四月十九日博多港ニ上陸センコトヲ證明ス
とある。
しかし、それ以上に本書を読んで今更ながら理解したことがあった。
我が家系にはどこの親戚にも戦前戦中の写真が無い。
以前から不思議に思っていたが、やっと回答を得た。
帰国に際して持ち物は厳格に制限されている。
衣類夏冬二枚、布団、壊れない食器、洗面具、食料品、リュック一個、腕時計は可。
写真、地図、本、宝石は不可。
私は父の子供時代の写真を見たことがないが、どうりで、全部取り上げられてしまったわけだ。
何とも遣る瀬無い。
ともあれ、淑子達は荷物を持ち長男幹雄8歳、長女幸子6歳、登紀子を背に負ぶって12㌔以上の道のりを歩く。
明日の命さえ分からぬ約一か月の長旅、やっと話せるようになった登紀子がしきりに言った言葉が載っている。
「おうちへかえろう」
時に加藤淑子31歳。
しかし、この手の本を読んでいつも思うのは敵地で終戦を迎えることの恐ろしさ。
数百万もの邦人が外地に取り残された。
よくぞ帰って来た、よくぞ帰って来れたものだ。
辛酸を舐めるとはこういことだろう。
我が一族も終戦後八カ月、上海で何をどう思い生きていたのだろうか。
語るべき親の世代は既に全員鬼籍に入った。
私がこうしてブログを書いているのも親が無事に帰還を果たしたが故だ。
先の世代の方は本当に大変な時代を生きたものだと痛感させられる。
因みに加藤淑子さんのお若い頃の写真を拝見するに実に可愛らしい!
序に淑子さんが聴いたというシャラャーピンの動画を載せておく。
曲は『黒い瞳』