1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか 飯倉章

 
まず最初に表紙の写真を見てほしい。
上段左からヒンデンブルグ、右、モルトケ、下段左、ルーデンドルフ、右、ファルケンハイン、何とも厳めしい顔つきというか威厳に満ちている。
凡そ100年前の独逸軍人で欧州大戦ではモルトケ、ファルケンハイン、ヒンデンブルグの順で参謀総長が交替した。
主に大戦を指揮したのはルーデンドルフ将軍。
戦中戦後に亙っていろいろ言われている人物で、「もし」作戦指揮したのがルーデンドルフでなかったら果たしてどういうことになっていたのか興味深いところだ。
ヒンデンブルグは後に飛行船、戦艦の名を冠するほどの人物として日本人にも知名度が高いと思うが1933年、ヒトラーがナチ党首として連立政権の首相に任命された時の大統領でもある。
 
さて、本書の要はリーダーシップのトライアングルということになっている。
つまり、皇帝、首相、参謀総長の三人の連携が上手くいっていたかどうかということを役職者が代わる毎に検証し、最強と言われたドイツ軍が何故崩壊したのかという壮大な話しだが、勿論、軍事専門家でもない私に、それらのことを講義できるはずもない。
まあ、以前からこの点に付いてはかなり興味があったので新刊書が出たのを序に購読したというわけだ。
 
まず、歴史のおさらいを少しせねばならぬが、19世紀後半までドイツはまだ統一されていなかった。
1870年の普仏戦争とはプロイセンとフランスの戦いであってドイツとフランスではない。
時のプロイセ国王はヴィルヘルム一世、宰相がビスマルク参謀総長がは大モルトケという布陣になる。
対するフランス皇帝がナポレオン三世
敗戦国となったフランスはナポレオン三世が捕虜になり、帝政の終焉、第三共和政へと移行、この結果、ヴィルヘルム1世は1871年ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝即位宣言式を執り行い、22の君主国と三つの都市国家だった連邦国家は統一されることになった。
 
統一前のプロイセンは国家を持つ軍であったと言われるほど強かった。
1888年3月、ヴィルヘルム一世は死去、6月にはその後を継いだフリードリヒ三世も死去したので予想もしなかった若さでヴィルヘルム二世がドイツ皇帝に即位した。
因みにヴィルヘルム二世はイギリスのヴィクトリア女王の孫になる。
若い頃から精神異常説が囁かれていたが、この君主の下で欧州大戦は勃発する。
宰相はベートマン、参謀総長モルトケの甥にあたる所謂、小モルトケ
 
サラエボの悲劇が全欧州を巻き込む大戦争に発展するのだが、おそらくこの時点では誰も途方もない死者を出し三つの帝国が崩壊するとは予想していなかったろうに。
オーストリアはドイツに支援を求めセルビアはロシアに支援を求める。
1914年7月28日、オーストリアセルビアに宣戦布告。
30日、ロシアも総動員令を布告。
闘いは混迷を深め1916年モルトケ脳卒中で死去、その後任が写真の人物、ファルケンハインになる。
 
ドイツは二正面作戦を強いられ、よく知られるようにソンムの戦いやヴェルダンの激戦は名高い。
ヴェルダンの仏軍指揮官は名将ペタン元帥。
一方、ソンムの会戦に当たってイギリス軍は200万発の砲弾をドイツ軍に浴びせたというから、その凄まじさが分かるというもの。
ドイツ軍の兵力消耗は465,000から650,000、対する連合軍は614,000人。
 
16年8月、ルーマニアが連合国側についてドイツに宣戦布告。
ファルケンハインは辞意を表明し大戦史上名高い68歳のヒンデンブル参謀総長ルーデンドルフ将軍の登場となるわけだ。
そしてアメリカの参戦を招くことになったドイツの無制限潜水艦作戦。
 
ところで、どの本を読んでもイマイチ見えて来ないのがドイツと共に戦ったオーストリアオスマントルコ、ドイツは東西戦線で戦っているのに、この両者はどのような作戦で連合軍と対峙していたのだろうか。
更に第二次大戦の転機となったミッドウェイ海戦スターリングラード攻防戦のような攻守所を変える場面が戦争終結間際まで感じられない。
ドイツ側は最後まで敗北するとは思っていなかった節もあり、歴史のもしで全軍の指揮官がルーデンドルフでなかったら形成が逆転していた場面も多々ある。
 
例えばヴェルダンの戦いでフランス軍は守備的なペタンから攻勢的ニヴェルに指揮が代わって消耗が増大、翌年5月から大規模な反乱・抗命・脱走が相次ぎ、そこを突けば一気に片が付いたところなのにドイツ軍司令部はそれを見過ごしてしまった。
17年3月、ロシア革命勃発、7月にケレンスキーが首相になるが10月革命でボルシェビキが政権を獲るとドイツと即時休戦協定を結ぶ。
つまり東部の敵がいなくなったわけで俄然ドイツ有利になるはずだったが。
 
しかし、ドイツの国内事情が問題だった。
元凶はルーデンドルフ「国民はカイザーの意見より自分を重視している」と公言して憚らず、最初に書いた三者のトライアングルがこの時点で機能していないことを示している。
だが、こんなデーターもある。
敵を殺傷・捕虜とするドイツ軍の効率性は5・51、西部戦線連合軍は1・1で圧倒的にドイツ軍がリードしている。
 
1917年9月、戦況はどうなっていたのか。
ドイツ側陣営のブルガリアが崩壊、29日に停戦合意が結ばれ、トルコも10月18日、単独講和を受け入れ戦線から離脱、さすがのルーデンドルフも卒倒してしまった。
ドイツにとって最終的な局面は1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱から始まり、9日にカイザーは退位、ドイツ国内はボルシェビキの影響を受けたスパルタクス団による暴力革命の危機が迫っておりカイザーはオランダに亡命。
 
著者は最後に指摘している。
ドイツが敗北を防げる方法もあったと。
その最大の要因は東部戦線のドイツ軍を西部戦線に投入すれば或は!
確かに、ロシア国内は赤軍と白軍の内戦が激しくドイツ相手に戦っている余裕はなかった。
それをしなかったルーデンドルフの責任を問うている。
 
傲慢で、軍事専門家としての視野の狭さ、人物的には非常に仕事熱心ではあったが、ユーモアの欠片もなく、些細なことに拘り、怒りを爆発させることも多かったと。
この本の主題である皇帝、宰相、参謀総長の兼ね合いが上手くいっていないと往々にして起こり得る典型的な類例ということになるのだろうか。
戦時に於いてはよく見られることだ。
 
例えば日本では参謀本部関東軍の関係、インパール作戦に於ける牟田口廉也中将と現地軍司令官の関係、スターリングラードに於けるパウルス元帥とヒトラーの関係と枚挙に暇がないが生死を分ける戦争では戦略、戦術の相違感は気が狂るわんばかりに激昂するのも理解できる。
しかし、何れにしても広大な欧州の東西戦線を指揮するなどは余程の能力がないと出来ない相談だ。
 
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