愛に恋

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映画道中無我夢中 浦辺粂子の女優一代記

あれは昭和60年の夏だったと思う。
仕事で伊豆は下田の駅に降り立った時、左手に小高い山を見つつ、実にいい所に来たものだと感嘆したものだった。
幕末以来の、この歴史深い街に一度は行ってみたいと思っていたが、まさか仕事で来るとは予想だにしていなかった。
以来、何度も下田を訪れ歴史好きの私としては当然の如く名所旧跡巡り。
 
玉泉寺、唐人お吉身投げの川、松陰密航の地、天城トンネル、浄蓮の滝、黒船祭りといつ行っても伊豆はいい所だが、その下田に泰平寺という寺があり、明治35年10月5日、木村くめという女児が産声を上げた。
当時としては珍しい父25歳、母38歳という姐さん女房で母は士族の娘というから古い話しですね。
これが後の浦辺粂子だが、いや、知っていたなら当時、是非訪ねていた寺だったのに惜しい事をした。
 
浦辺粂子と言っても平成生まれの人は知らない人も多かろう。
ともあれ、女優への道のりは沼津巡業に来た奇術の松旭斎天外一座に入門したことにあると書いてあるが当然、私はこの一座を知らない。
かなり紆余曲折があったようだが、その後、浪花少女歌劇に入団、これは一年で解散。
 
活動写真の黎明期のことは詳しくないのだが、大正期、時代劇を旧劇、現代劇を新派と言っていた。
旧劇専門の撮影所では女役を女形がやって、女優という職業がまだなかった時代、松井須磨子の活躍に刺激され、活動写真にも女優をという機運が高まり浦辺粂子大正12年の夏から女優人生が始まる。
時に粂子20歳で、日活の旧劇女優第二号というから凄い経歴になる。
子供時代、または20代の粂子の写真が掲載されているが、とても私らが知っている浦辺粂子とは別人のような写りで後年の彼女を想像できない。
 
この本を読むまで知らなかったが無声映画時代、当然、弁士の語りで観客は筋書を理解するのだが、しかし画面上では役者が一応何かを喋っている。
その口パクは何を言っていたのか、粂子はこんな風に書いている。
 
「お猿のお尻は真っ赤でござる」
「オタマジャクシは蛙の子でござる」
「蛙の面にションベン、にてござる」
 
つまり、当時の役者は台詞を覚える必要がなかった。
なるほどね!
それはともかく以下の観光案内の写真を見て頂きたい。
写真の右手に「山科聖天」という石碑が建っているが、これは浦辺粂子が寄進したものらしい。
どこを検索してもそれらしい記述がないが、彼女自身が書いているので間違いない。
因みに裏には「女優浦辺粂子建立」と掘ってあるらしいので、機会があれば一度行って確かめてみたい。
 
 
しかし、この本を読んでいると浦辺粂子は脇役が多いと言っても往年の錚々たる顔ぶれと共演し、また作品や監督にも恵まれた女優生活だったようだ。
出演作はチョイ役も含めると千作を超えるという。
岡田嘉子に付いての駆け落ちは、あの有名な事件だけではなく以前にもあったらしい。
ある日、当の岡田嘉子浦辺粂子にこう訊いた。
 
「外松男爵の若様、どうお思いになる?」
 
その、外松男爵の若様と共演が決まってい岡田嘉子は、突然、撮影所に現れず、男爵の若様と駆け落ちしてしまった。
なかなかやるね!
因みに二度目の相手は演出家の杉本良吉。
 
その他にも当時の大スター目玉の松ちゃんこと尾上松之助エノケン岡田時彦など枚挙に暇がない。
粂子は大のギャンブル好きと聞いていたが、それを教えたのが溝口健二川口松太郎花柳章太郎で三人は小学校の同窓生で、連れられて行ったのが淀の競馬場。
それ以降、すっかりギャンブル狂になってしまった粂子。
花札、サイコロ、競艇と何でも御座れで、あれだけ映画に出ながら金はあまり残さなかった。
 
しかし、昭和40年、63歳で紫綬褒章を受章。
女優では前年の飯田蝶子に次いで二人目とあるから凄い!
同年の受賞者には長谷川一夫もいるが、天下の長谷川一夫と同列か!
その後に東山千恵子も受賞。
 
この本は浦辺粂子、82歳の著書で奥付を見ると初版が1985年8月20日とある。
それから4年後の10月25日、独り暮らしだった粂子を襲った不慮の事故。
本当に痛ましい最期で悲痛な思いがする。
彼女は生涯独身のように思われているが一度結婚歴がある。
無数の映画とテレビ出演、今でも、あの独特の台詞回しと風貌が頭をよぎる。
とにかく、彼女が生前、本を出版していたことを全く知らなかったので、この著作に巡り合えて本当に良かった。
 
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