愛に恋

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本郷菊富士ホテル 近藤富枝


本論に入る前に菊富士ホテルの経営者、羽根田幸之助は妻きくえとの間に20年間で12人の子を産み、その内3人は流産、成長した子供は三男六女。
長男で第四子生まれの冨士雄の結婚相手、延子が著者の実父の妹ということになる。
 
羽根田幸之助が岐阜に生まれたのは安政6年3月。
上京は明治28年、36歳の時で何の目的もなかった幸之助は人に下宿屋をするがいいと勧められ、3度目の移転で菊坂長泉寺内の地所を借り、日本間26室二階建ての下宿を建てたのが29年。
菊富士の名は妻のきくえと、この時代、ここから富士見えたことに由来するらしい。
 
当初、菊富士楼と名乗ったがホテルに名称を変更するに当たって当局へ届け出たがなかなか許可が下りない。
理由としてはホテル名義では外国人が遣って来て取締が面倒、当時は東京で外国人に通用するホテルは帝国ホテルと日比谷ホテルの二軒のみ。
幸之助は必死に訴える。
 
襖一つで隣の部屋と繋がっている在来の日本式宿屋とは違いますぞ。ドア付の個室で鍵もかかるし、ベッドも入れてあります。第一お客さんが食堂で食事をするようになっとるのは、ホテルである証拠でしょうが。西欧料理のコックも雇ってあります。
 
更に厨房には大きな冷蔵庫、玄関にはフロントを設け、電話交換台を帳場に設置しシャワーも完備。
かくして幸之助は大正3年3月、東京で三番目のホテル呼称を許されることになったが、その内実は高等下宿家であった。
しかし、東京大正博覧会が開催されると外人客が押し寄せ、人力車の列が菊坂の下まで続いたというから、幸之助の得意や思うべしである。
時に幸之助55歳。
 
博覧会が終わっても暫くの間、宿泊客は外国人が多かったが次第に名ばかりホテルは高等下宿のような様相に様変わりしていく。
当時、よく言われるところの高等遊民の巣窟のような存在になり、その名が知れ渡るや文士、哲学者、絵描き、アナーキストらが入れ替わり立ち代わりやって来るようになり、佳きにつけ悪しきにつけ、その結果が今日、本郷菊富士ホテルの名を歴史に留めることになった。
 
因みに宿泊費だが一か月、昼食抜きで80円。
中堅サラリーマンの月給が30円から40円の時代にである。
さて、ここからが菊富士ホテルに名を連ねる住人たちの出番である。
始めに大杉栄だが、野枝と共に菊富士ホテル新館の二階34番に移って来たのは大正5年10月5日。
例の日影茶屋事件が起きたのが10月9日未明。
先に葉山行きを誘われていた神近市子が大杉から連絡が無いので菊富士ホテルを訪ねると女中にこう言われた。
 
「二人は葉山へお出かけですよ」
 
怒りに震える市子はその足で日影茶屋へ直行。
居合わせた野枝と気まずい状況の中で3人は夕食を取る。
気を利かせて野枝は東京へ帰ると、一端は宿を出たが10時頃、「ホテルの鍵を忘れた」と言って戻って来た。
そのため当夜は3人で布団を並べ寝ることに、何とまあ嫌な雰囲気だったろうか。
 
翌日、心を残して野枝は帰京、事件が起こったのはその夜。
市子の嫉妬は極点に達し、背を向けて寝る大杉の首に短刀を突き刺した。
それなりに大杉も覚悟してようで。
 
「今夜、やられるぞ」
 
と、思いつつ身を固くして眠るまいと思っていたが、つい、うとうとしてしまった。
この経緯に付いてはどの本にも書かれているが、今回、初めて知ったのは事件早朝、野枝は菊富士ホテルに戻っており、ホテルの帳場に電話したのは幸之助の三女八重子だった。
今まで、いつどのように野枝が事件を知ったかなど考えてもみなかったのだが。
駆け付けたのは妻の堀保子。
 
「他人の男を盗んで、またそれを盗まれたからといって、その男を殺すなんて馬鹿な話しがあるもんですか」
 
と激怒。
まあ、大杉の言うフリーラブも、ちょっと都合のいい話しのようにも聞こえるが。
 
夢二が菊富士ホテルに現れたのは大正7年11月、最愛の人、笠井彦乃を父親に奪い返され、傷心の思いで京都から上京して来た。
次なる夢二の恋人お葉が菊富士ホテルにやって来たのが8年の夏頃で新館二階の東側、谷崎とは二室隔てた近さだったというから驚く。
当時の谷崎は千代子夫人の末妹、せい子と愛欲関係の真っ最中。
谷崎と夢二が友人関係だったという話しは聞いたことがないが、地下食堂で何度か顔を合わせていたかも知れないわけだ。
ややこしいが神近市子と夢二の妻たまきとは友人関係にある。
 
つまりは何だ!
大杉、谷崎、夢二と三人共不倫状態にあったわけだ。
面白ろうて、やがて哀しき 夫婦かな、ってなわけか。
しかし、彦乃が夢二に送った手紙が泣かせるではないか。
 
お寒いのでしたら、三味線を焼いてその火で温まりましょう。
涙で絵具をとかしましょう。
絵具がなくなったら、私の血で描きましょう。
そして、熱い接吻がおなかのたしにでもなるのだったら・・・
 
彦乃は旅行先の別府で喀血、京都の病院に入院したが、そのことが彦乃の父に知れ、病院に駆け付けた父に夢二は村正の短刀を抜いて振り回し取っ組み合いになり階段から転げ落ちた。
激しいね・・・!
ところで、夢二の代表作「黒船屋」は大正7年の作だが、この本によると菊富士ホテル四十番で描かれたとある。
大正10年7月、夢二は菊富士ホテルを後にする。
 
宇野浩二が菊富士ホテに現れたのは大正12年、宇野は大の雷、地震嫌いで案内された部屋は旧館の一階、薄暗い八畳の間3番を借りた。
宇野はもともと本で窓を塞ぎ深山幽谷だと言うような男で全く暗さを問題にするような人ではなく、すっかりここを気に入ったらしい。
しかし、宇野浩二は変わっている。
宇野の舐めた貧乏時代の辛酸は非常なもので、その貧しさのため女房同然の女を一度ならず二度までも売り飛ばし、その女を売り先きの色街から足抜きさせて、今度は追わる身となり、母もろともに逃げ惑ったこともある。
芸術に色恋は付き物だとは雖も本当にみなさん大変!
 
直木三十五が現れたのは大正13~14頃、直木は金が無い時は鼻血も出ないほどだが10年間で約3万枚の原稿を書いたほどだからかなり儲けてはいた。
ある時、芸者と銀ブラをしていると、その芸者がショーウィンドウを見て突然云う。
 
「あら、素敵な指輪だわね」
 
すると直木は店につかつかと入るなり今なら時価100万はするという指輪をポンと買って芸者に渡したとか。
これでは金も貯まるまい。
その他、まだ多彩の人物が泊まっていたが、いつまで書いても仕方ない。
そしてその時「歴史は動いた」ではないが昭和20年3月10日の大空襲でホテルは灰燼に帰し30年の幕を閉じた。
前年の3月、食料統制のため軍需会社の旭電化に売却され寮として使われていた。
全盛時の全容はこのようなものであった。
 
 
去年11月、満を持して現場に行ってみたはいいが、この場所はどうも分かりにくい。
道を行ったり来たり、やっと探し当てた石碑と現在のマンションの外観。
 
 
この辺り一帯を焼夷弾が焼き払ってしまった。
まったく何ということをしてくれたんだ!
当時を知るよすがは何一つ残らず、これが歴史の現実ですね。
因みにこの時代の貧乏文士たちは勘定が溜まり払えないのも稀ではなかった。
 

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