愛に恋

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自伝 若き日の狂詩曲 山田耕筰

これは山田耕筰自らが書いた自伝だが、どういうわけかベルリン留学から帰国した1914年で終わっている。
耕筰は明治19年生まれで、その生い立ちを読んでいて少し驚いた。
勿論、私とは全く違う世代だが晩年の10年程、この世で重なる時期がある。
出自は母の再婚相手の次男とあるが、その母の初婚の相手の経歴にはこうある。
 
「夫もまた、武田耕雲斎との戦いに出て陣没した」と。
 
武田耕雲斎とは水戸天狗党の首領で、所謂、天狗党の乱のことを言っているのだが、私の世代にしてみれば、この記述を読んで、
「ええ!幕末ってそんなに近いの」ってなもんである。
 
まあ、それはともかく再婚相手で耕筰の父となった謙造なる男はこれまた酷い奴だった。
伯父の言葉を借りれば「蓄妾13人」というから凄い。
しかし捨てる神あれば拾う神ありで、もともと音楽志望だった耕筰は姉の夫たるエドワード・ガントレットというイギリス人宅に引き取られた頃からメキメキと音楽的才能を開花させた。
 
なんでも義兄が弾くオルガンの横に立ち間違いなくページを捲るうち、半年もすると楽譜が読めるようになったという。
そんなものだろうか?
その才能を見込まれて一面識もない岩崎小彌太男爵にベルリン留学の給費を全額出して貰えるという幸運にも預かった。
しかし明治人の太っ腹には感心する。
 
それに応えるかのように耕筰は猛勉強、まだ日本に西洋音楽が根付く前のことで、それは並大抵のことではなかったろうに。
この本は帰国後、36年ほどして記憶に基づいて書かれたが耕筰の貴重な楽譜や資料は戦災で焼き尽くされてしまった。
その割には記憶は鮮明で、まるで日記のように書かれている部分も多い。
 
欧州帰国後は日本交響楽協会の設立に尽力し、オペラ、交響曲、映画音楽、校歌、軍歌と手を広め、茅ヶ崎在住後は白秋と組んで作った童謡などが私たちには馴染み深い。
 
・赤とんぼ
・砂山
・ペチカ
・待ちぼうけ
・からたちの花
・この道
 
因みに今年は歿後52年、文明開化以来、全ての分野に先覚者が出たが、いやはや、それはにしても日本人の大変なフロンティア精神には感服する。