居眠り狂志郎の遅読の薦め

未だ休読日に至らず

劉生の死

 
劉生日記は有名だが、今日、この本の存在は殆ど忘れ去られたかのようだ。
以前から、購入の機会を伺っていたが、私の知り得る限り大阪でこの本を置いている古書店はたったの一軒。
しかし、それよりAmazon価格の方が安かったのでまずは手に入れ良しとした。
問題は中身だ。
タイトル通り、私としては劉生の死に関することだけを扱ってくれれば充分。
特別、劉生の経歴を詳しく書かなくて結構、さてさて、ページを捲り続けるうち、予想通り、どうやら劉生死の謎に迫る書籍らしい。
 
物語はいきなり死の年、昭和4年から始まるが鎌倉在住だった劉生は洋行の為の費用稼ぎのつもりで大連・奉天・ハルピンで個展を開くが計画は失敗し帰国の途に着く。
しかし、鎌倉には直接帰らず何ら縁も所縁もない山口の徳山で客死した。
それは一体何故か?
徳山で何があったというのだ。
ただ、一筋、これのみを追求するための本を探していたのだ。
 
著者の岩田礼という人はこれまで虎の門事件に関する本を二冊出して何れも読んでいるので、今回もその調査力に期待したいところだ。
しかし、のっけから驚いたのは劉生、その人を知る生き証人の取材から入っている点、本の出版年月日を見ると昭和50年8月31日とある。
なるほど、劉生の死から46年、この時点ではまだ直接、劉生と関わった人が多く存命していたということになるのだ。
 
更に全く意外な事に劉生を徳山へ連れて来た張の本人が健在だというから驚く。
してみると劉生死因に関するこれ以上の資料は他にあるまい。
私の期待は否が応でも高まる。
それだけに、この本が世に埋没して誰知らぬ存在になってしまったのは惜しまれる。
さてと、毎度のことながら本論に入る時は結構な重圧が掛かる。
まあ、これも仕方あるまいて。
 
ともあれ、私は劉生芸術を語れるような輩ではないが序章にはこんなことが書かれている。
 
驚くべきことに彼は近代絵画から古典へと逆行した!
 
つまりこういうことらしい。
同時代の画家は全員、後期印象派からスタートしてフォーブ、キュービズムと前に走るのに対し、彼一人のみ途中から回れ右して逆光、北欧クラシックに走り、更に遡行して日本画へ突っ走ったと。
当然の如くみんなは「お前はいったい何をしているんだ」と詰問する。
すると劉生は「俺は俺の道を走るんだ」と言って孤独の道をひた走る。
話しを劉生の死へ戻す。
まずは、この引用を読んでもらいたい、頭が下がる思いがした。
 
既刊の多くの劉生画集や劉生に関する文献、年譜を見ても、その死については、ほとんど「昭和四年十一月、大連からの帰途、山口県徳山に立寄り、同年十二月二十日死去」と、無下に放り出している。日本洋画壇の反逆児と呼ばれる劉生の末期が、これではあまりになさけなく、哀れである。人間の死の重みは、はかり知れないし、芸術家の真の評価は、その死によってはじまると言うのに、劉生の終焉を放却するとは一体いかなることか。
 
そう、まさしくその通り。
よくぞ言って下さいました。
日頃、私が思っているのはこの点なのであります!
最後の年となった正月二日の日記に劉生はこう書いている。
 
今年は本当にいい年にしたい、酒や遊びと遠ざかり、家庭を幸にし、よりよき仕事の道を見出し、よき絵をかき度い。この頃又新しい余の道が開けてきそうにも思われる・・・。
 
しかし、この年の暮れ滞在僅か二十一日間の徳山で死すとは。
この謎を解き明かすため筆者は執念で劉生の最晩年を追う。
でなくては劉生は安息な永遠の眠りに就かれないと。
 
さて、劉生渡満の理由だが昭和4年8月、神戸で画会を開きヨーロッパ行きの資金を作ろうと計画したがうまくいかず満州に渡って某大官の肖像画を描いて大金を儲け、その金でフランス行きの計画を立てる。
一応、知人の紹介もあり満鉄の招聘という形に決まる。
この時に同行したのが問題の徳山出身田島一郎という人物になる。
田島は山口県議会員を二度務めた田島公吉の長男。
 
田島一郎は劉生絵日記には度々登場するが、著者は当時まだ存命だった田島を探し出し面会を申し入れる。
田島の記憶力はよく劉生に初めて会った日を大正11年3月9日と断言。
田島が劉生に随行して満州に渡ったのは画商だった田島を劉生が誘ったとある。
二人は9月29日、神戸から出帆して10月3日大連着、大和ホテルに宿泊。
しかし、劉生は噂に違わぬ潔癖症
便所に行けば紙一丈使わねば承知出来ぬほどの神経質で着くなり満州生活に参ってしまった。
 
食事が口に合わず人々は風呂に入らず不潔だから臭いと難癖を付け一変に中国嫌いとなった。
こんな逸話が残っている。
ある家で御馳走を賜り、一品一品説明を求める劉生。
そして最大の料理が運ばれてきた。
 
「これは三日も前から用意した最上の珍味です・・・」
 
劉生はそのドロリとした気味悪い馳走を眺めながら訊ねた。
 
「一体、何の料理かね」
「カエルの卵巣です」
 
とたんに劉生の悲鳴が上がり田島らが、
 
「とても美味しいものだ、食べないと主人に失礼にあたる」
 
といくら説得しても、
 
「これだけは勘弁してくれ」
 
と断然拒否。
 
ともあれ展覧会は11月24日から26日までの3日間。
展示作品は13点。
ところが絵葉書は全く売れず絵の方も不振で思ったような額が集まらなかった。
神戸で第一の挫折、満州で第二の挫折、そして第三の挫折が彼を襲う。
劉生は家族宛ての中で風邪を引いたと書いているが、これは単なる風邪ではなく扁桃腺炎による発熱だった。
元々、劉生は扁桃腺炎を起こしやすい体質でその上かなりの酒豪
事態は逼迫しており劉生は知らなかったが、この時点で既に慢性腎炎に罹っていた。
 
心身共に疲労困憊した劉生は癇癪を起し、猛烈なホームシックにかかる。
個展が終わった11月27日の翌日、急に帰ると言い出し皆を慌てさせた。
27日、満州滞在僅かに55日で帰国の途に着き29日午前8時門司港着。
そこで最大の問題、劉生は何故、鎌倉へ直行せず見も知らぬ徳山に行ったか?
いつくか理由があるが、まず彼は満州を去る前にこんなことを言っている。
 
「こんな船に乗ったら、きっと病気をして、日本へ着いたらコロリと死んでしまふよ」
 
先に書いたように劉生は心身共に参っていた。
個展は失敗し金も出来ず、放蕩生活で借金が溜まっている。
家族に顔向けが出来ない。
そして何より汽車で鎌倉まで帰る体力もなかった。
そこへ持って来て渡りに船、田島が徳山に立寄り画会を開いてヨーロッパ行きの資金を貯めてはどうかと提案する。
劉生は静養方々、その安に賛成。
 
11月30日、劉生ら一行は徳山着。
田島は前もって劉生が徳山に行くから出迎え頼むと地元の名士に手紙を出していた。
駅で初めて劉生を見た人はこう言っている。
 
「相撲とりのように大きいのでビックリした。顔色が酷く悪くむくんでいた」
 
しかし、悪いことは重なり東京では有名な天才画家も地方の徳山で劉生の名を知る人は殆どいなかった。
そして悪夢のどんちゃん騒ぎが始まり連日連夜、芸者を呼んでは呑めや歌えの大騒ぎ。
 
一体、劉生の酒はいつ頃から始まったのか。
記録によると大正10年からとある。
パトロンが出来、絵も高く売れるようになって、歌舞伎や長唄に凝り出し酒を嗜むようになったと。
震災後、京都に移ってからは頂点に達し大酒飲みになる。
だが、絵が思うように売れなくなると更に度を増し、自分でも慎むべしと云いながら嵌っていってしまった。
当時、吉井勇武者小路実篤に忠告している。
 
「あんなに本当に酒を呑んだら助からない」
 
事態は更に深刻差を増して行く。
画の色調が変わり、本来の暗さから明るさに移行、それを眼科医が指摘している。
劉生は徳山に来て以来、しきりに「目がかすむ、目の先が暗い」と何度も言い、それは慢性腎炎から来る腎性網膜症や眼底出血を起こしてる可能性を言い、これに冒された場合、まず現れる障害として全ての物体が暗く見えるようになると公言している。
しかし、劉生は暗さに慣れてしまい、それに気づいていない。
そんな状態になっても劉生は呑み続け、徳山に来て以来16日目に遂に倒れた。
田島日記によると。
 
十名の医師相互協力して最善の努力を尽くしたるも遂に及ばず、病勢刻々絶望の域に近づき再び酸素を使用したるも最後の人力功を奏せず、多量の汚穢血様液を吐出されたるを最後に二十日午前0時三十分、遂に一世の天才劉生先生、西南の国徳山の地にて淋しく永眠さる。ああ万事絶望、水を打った様に静寂裡に一同涙を持って先生の死顔を排す。
 
昭和4年12月20日午前0時30分、劉生は38歳の命運を絶った。
つまり劉生の死を要約するとこうなる。
 
酒量、過労気味、扁桃腺炎、腎炎、浮腫、心臓発作、腎性網膜症、視力障害、尿毒症、悉くこの経過を辿り大量吐血した後、死に至る。
娘、麗子が書いた本に拠ると劉生危篤の電報を貰った夫人は藤沢駅で麗子と待ち合わせ、一路、徳山に急ぐが、その車中でリュウセイシス」の電報を受け取るや周りも憚らず号泣したとあるが、いざ徳山に着いて問題の人、田島に会うと一言も言葉を発するっことはなかったという。
 
現在、終焉の街、徳山には碑文が立ち関係者の尽力で武者小路実篤梅原龍三郎川端康成の揮毫が書かれている。
徳山か!
行ってみたいが遠いいな。
 
しかし、どうなんだろうか?
友人知人、医者などからこのままだと取り返しのつかないことになると言われていたのに何ゆえの豪遊であったか。
また、徳山でも色んな場面で絵を描いたらしいが劉生の知名度をそれ程の物とは知らない人たちにとって人から人へ渡ってしまい、更には徳山空襲で現在は殆ど残っていない。
 
夫人としては徳山なんぞに誘った田島への憎しみもあったのか、帰国直後、そのまま鎌倉に帰宅していれば或はこのような形の死を迎えなくともよかったのか。
何れにしても関係者に衝撃を与えた死であった。
最後に追伸として書いておく、著者は既に鬼籍に入られているが、出版会社たる日動出版部とは聞いたことのない会社だが、それだけに文庫化もされず今日、絶版の憂き目に遭っている。
このまま、将来、日の目を見ることなく埋もれていくかと思うと読書家としては何とも遣る瀬無い一冊だ。
 

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