私はその場に居た 戦艦「大和」副砲長が語る真実 海軍士官一〇二歳の生涯 深井俊之助

 
歴史を作る者、または変える者とは常に決断であると言っても過言ではない。
古くは日露開戦を控えて編成された連合艦隊司令長官は常備艦隊司令官であった、薩摩閥の日高壮之丞が、その任に当たるのが常道だったが、山本権兵衛海軍大臣は敢えて日高を更迭し舞鶴鎮守府司令官の東郷平八郎を抜擢した。
指導部のみならず、不安を抱えた明治天皇からの御下問に対して山本はこう答えた。
 
「東郷は運のいい男ですので」
 
そして日本海海戦は大勝。
下って真珠湾攻撃の南雲中将の決断はどうだったか。
第三次攻撃を要請した源田実中佐の進言は聞かず艦隊は岐路に着いた。
敵の空母に発見される前に退却する。
確かにそれも一つの手だが真珠湾で壊滅状態にあったアメリカ太平洋艦隊に留めを刺す絶好のチャンスでもあったが。
ミッドウェイ海戦での南雲長官の決断は。
あればかりは痛恨の一事で、これ以降攻守逆転となってしまった。
 
辻参謀はどうか?
「作戦の神様」などと言われながらノモンハン事件ガダルカナルの作戦失敗など自らの責任は取らず指揮系統を無視した独善的な指導で部下へ責任押し付け、自殺の強要などで悪名高い。
 
牟田口廉也中将の場合は?
インパール作戦を立案して多くの将兵を死地に送り、戦後自決もせず、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と抗弁し続けた。
太平洋戦争中、あれほど無謀な戦いもあるまいに。
 
余談が長くなったが、この書は今日まで戦史の謎と言われる「栗田艦隊、謎の反転」について、何と当時、戦艦大和で副砲長の任に当たっていた未だ102歳で存命する深井俊之助氏が書かれた本で非常に興味深い。
栗田艦隊、謎の反転とはアメリカ軍の作戦をレイテ島を足掛かりにフィリピンの奪還と判断した大本営が立案した捷一号作戦と言われるもので計画ではこうある。
 
空母四隻からなる小澤中将率いる囮部隊がルソン島の北東海面に進出し米機動部隊に攻撃を懸ける。
16隻の空母を持ってレイテ湾に展開するハルゼー機動部隊は日本の主力は小澤艦隊と判断し全艦隊に追尾を命ず。
 
彼我の戦力の差は歴然としており、日本は虎の子の空母4隻を失ってでもこの作戦を成功させたい。
フィリピンは重油の貯蔵庫でもあり、ここを失うことは致命傷に成り兼ねず日本海軍は捨て身の戦法に撃って出た。
ハルゼーが小澤艦隊壊滅のため全力で北へ向かっている間にレイテ湾に上陸した米軍を大和、長門の強力な艦砲射撃で木っ端微塵にしようという作戦だった。
 
命令では昭和19年10月25日早朝、レイて湾に突入。
午前11時、栗田艦隊はレイテ湾まで2時間の距離に接近。
同時刻、ハルゼーは小澤艦隊を攻撃中。
仮に急を聞き付けレイテに戻ったとしても、既に間に合わない時刻。
我に勝機来たり!
ところが午後1時10分、栗田艦隊は大本営及び全軍に対して下記の電報を発信。
 
第一遊撃部隊はレイテ泊地突入を止めサマール東岸を北上し敵機動部隊を求め決戦
 
その時、命令に愕然として上官に迫ったのが著者の深井俊之助氏である。
共に乗艦していた宇垣纏中将は最後まで「南に行くのではないのか」と何度も言っていたとか。
もし、艦隊の全指揮権を宇垣中将が握っていたら、或は歴史は変わっていたかも知れないと後世言われているが。
著者が最後まで疑っていた出所不明の電報。
 
「敵、大部隊見ゆ」
 
この一本の電報によって栗田艦隊は反転、突入の機会は永久に失われた。
栗田長官は戦後、あまり多くは語らず、レイテ戦の後は陸上勤務となり替わって長官になった伊藤整一中将は沖縄特攻作戦で大和と運命を共にした。
宇垣中将も玉音放送後に最後の特攻として出陣。
謎は残る。
果たして誰が「敵、大部隊見ゆ」の電報を送ったのか。
 

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