愛に恋

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ニジンスキーの手記 完全版 ヴァーツラフ・ニジンスキー


手記は第一次大戦後の1919年、29歳の頃に書かれたものだが、この若さで既に精神を病んでいる。
ニジンスキーは、驚異的な脚力による『まるで空中で静止したような』跳躍、中性的な身のこなしなどにより伝説となったとあるが、彼の何がどう天才的なのか無論、私が知るはずがない。
しかし、精神を病んだ後の執筆と知って以前からどうしても読みたかった。
かなり長い本だが、自信、ところどころ書いているように長期間に渡って書き継がれたものではなく、日々、手が疲れるぐらいのスピードで書いたものらしい。
 
では一体、何が書かれているのか。
はっきり言って解らない、同じ事柄ながら肯定と否定を繰り返しているようにも取れる。
まるで、尻取り遊びのように話の主体が変わり、何を読んでいるか分からなくなる。
こんな記述がある。
 
言葉はガソリンだった。蝋燭もガソリンも神ではない。なぜなら蝋燭は教会の学問であり、ガソリンは無神論の学問である。
 
または!
 
私は日本人だ。私は異邦人であり、よそから来た。私は海鳥。私は陸鳥だ。私はトルストイの木だ。私はトルストイの根だ。トルストイは私のものだ。私はトルストイのものだ。トルストイは私と同じ時代に生きた。私は彼を愛したが、理解できなかった。トルストイは偉大だ。私は偉人が怖かった。
 
う~~~ん?
更に!
 
私は妻を愛する。私は夫を愛する。日本などの猥褻な本を読んでは肉体的な愛にふけり、あらゆる体位を試し性的な遊びに溺れる夫婦は嫌いだ。
 
因みにニジンスキーの両親はポーランド人、本書は全て彼本人が書いているので、いつ、どうして精神を病んでいったのか具体的には分からない。
しかし、一見、支離滅裂な文章だが知性は感じる。
とにかく神について論じることが多く政治的見解も至るところで散見でき、第一次大戦後とあって登場する人物は順にロイド・ジョージ(英)ウィルソン(米)クレマンソー(仏)ケレンスキー(露)だが、彼はきっぱりボルシェビキは嫌いだと言っている。
因みに本書はスイスで執筆されたようだ。
 
さて、もう少し彼の文章を追ってみよう。
 
私は天文学が嫌いだ。神のことを教えてくれないからだ。天文学は星の地理学を教える。私は地理学を知っている。習ったからだ。私は国と国との境界線が嫌いだ。
地球は一つの国だ。地球は神の頭だ。神は頭の中の火だ。私の脈拍は地震だ。私は地震である。
 
ドストエフスキーの『白痴』を読んだ時の感想は。
 
私は「白痴」を読みながら「白痴」はいわゆる「白痴」ではなく善良な人なのだと感じた。私は「白痴」を理解できなかった。まだ若く、人生を知らなかったからだ。
今はドストエフスキーの「白痴」が理解できる。私自身が人から白痴だと思われているからだ。みんなから白痴だと思われるのは悪くない。私はこの感覚が気に入ったので、白痴のふりをする。私は白痴ではなかった。
 
この後、私は狂気が怖かった、私は狂人ではないと言っている。
本人は自身の精神状態をどう思っていたのだろうか?
そして文章は更に難解を極めていく。
 
私は生とは何かを知っている。生は生であり、死ではない。私は生のために死を望む。疲れたのでもう書けない。眠ったから疲れたのだ。私は眠った。眠った。眠った。眠った。私はいま書きたい。主が命じたら寝よう。私は見習修道士だ。私は彼だ。彼は神だ。私は神の中にいる。神々、神々、神々。
 
私に言わせれば、すべての芸術家は感じるが、充分には感じない。私は鼻を掻く、鼻毛が動くのを感じたからだ。神経のせいで鼻毛が動いたのだ。
 
記録によるとロシア革命が勃発した頃、ニジンスキー一家は中立国スイスのサンモリッツに移り住んだとある。
山に囲まれ長閑な環境でありながらニジンスキーは少しずつ奇怪な振舞いをするようになったらしい。
舞踊に興味を失い、作品の構想を練ることもなくなり、踊りの稽古もせず、絵を描くことに没頭する生活に変化していく。
 
1919年3月4日、ニジンスキー一家チューリッヒにある精神病院に向かい手記はその前夜で終わっている。
医師の診断は、軽い躁病的興奮をともなう、混乱した精神分裂症、ただし入院の必用なし。幻聴や妄想はないので精神分裂病とは断定できずとある。
しかし、結局、サナトリウムに入院することになったが、いったいニジンスキーはどのような状態だったのか。
解説者によると。
 
彼はもともと言語による意思疎通が上手く出来なかったが、年を追うごとにますます言葉少なになっていき、やがては他者および外界とのコミュニケーションがまったくなくなった。まわりの質問には答えず、時たま意味不明な言葉をつぶやくのだった。
ただぼんやり座っていることが多かった。ダンスを見ても反応せず、時に暴力を振るい、看護人の首を絞めたり、男性の看護人に性的な誘惑を仕掛けたりすることがあった。
 
また、こうも言う!
 
ニジンスキーの狂気には、狂気を演じているうちに正気と狂気の境界が崩れてしまったのではないかと思いたくなるようなところがある。
 
この本を読んだからといってニジンスキーを理解したなどという大それたことを言うつもりどころか、却って理解出来なくなったとも言える。
 
私は肉体をまとった感情であり、肉体をまとった知性ではない。
私は知性ではない。私は理性だ。
 
もともとニジンスキーには潜在的に狂気が宿っていたと理解したらいいのだろうか。
それが、或る時、何かの拍子に顕在化してきたのか、はたまた何かショッキングな出来事が重なり徐々に精神を病んでいったのか難しい問題だが、しかし人間、悩みが多いからと言って必ずしも精神に異常を来すとは限らない。
ともあれ、この本を読めて良かった!
 
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