父西条八十は私の白鳥だった 西条嫩子

 
何をきっかけにか忘れたが、20歳の頃、近現代詩と妙に肌合いの良さを感じた一時期があった。
中でも天才、萩原朔太郎の詩に痛く感銘を受けた私は、続けて立原道造佐藤春夫室生犀星中原中也と読み漁り、そして辿り着いたのが西条八十
私にとっては・・・!
 
 
というランク付けで、今でも寂寥の中に自分が追い求めている何かがあるようで悩ましい。
例えば西条八十のこんな詩。
 
やがて地獄へ下るとき
そこで待つ父母や友人に
私は何をもっていこう。

たぶん私は懐から
蒼白め破れた蝶の死骸を
取り出すだろう。

そうして渡しながらいうだろう。

一生をさみしくこどものようにこれを追っていました、と。 
 
タイトルは「蝶」と書くが、おそらくこの場合は「てふ」と読むのではなかろうか。
この本の作者は西条嫩子(ふたばこ)、西条さんの長女だが発行が1978年というから、かなり前の本でもあるし著者も既に亡くなっている。
 
とかく芸術家の死後、「父」を書く娘さんがが多いが、これはどういう訳だろうか。父を尊敬する余り、往々にしてファザコンに陥る傾向にあるのか或は思い過ごしか。
例えば丹羽文雄の娘さんは大のファザコンであったがアルコール中毒で父より先に亡くなってしまった。
 
しかし反面、天才芸術家には困った一面もある。
朔太郎には孤独癖があり酒ばかり飲んで終電でしか帰らない。
ご飯なども子供のように食べ散らかす。
一方、八十は流行作家となって、やたら女にモテた。
それをいいことに放蕩三昧、明治生まれの夫人は、それを一途に耐えた。
 
朔太郎はひたすら孤独を書き、八十は抒情的な郷愁を書いて作詞家としても成功した。
確か八十の評伝にはこのようなことが書かれていたと記憶するが。
作詞家になったきっかけ、震災の時に上野の森で避難していたら、誰か子供が当時の流行歌を歌っているのを聞いて、「そうだ、これからは、人々に歌ってもらえるような詩を書いていこう」と決めたと。
 
八十が残した作品はあまりにも膨大、そんな父の作品を大人になって読む、尊敬と慈しみの気持に捉われファザコンになるのか。
著者は母、父、夫と順番に亡くし、嫁いだ娘と離れ、独り、想い出の中に生きているようにも思うが、かなりの才女で父と同じ道を歩み物書きにして詩人でもあるとか。
それ故、文章も上手い。
大陸で終戦を迎え、凌辱の辱めを受けるぐらいならと自決も覚悟したらしい。
また、若くして死んだ夫の不自然な死は未だに解明されないままという。
 
ところで堀口大学は八十のことをこんな風に表現している。
 
「君は失ったものを一番愛する人だから」
 
名言だ!
八十が亡くなったのは昭和45年8月12日。
墓碑にはこのように書かれている。
 
われらたのしくここにねむる
離ればなれに生まれめぐりあひ
短き時を愛に生きしふたり悲しく別れたれど
ここにまた心となりてとこしえに寄りそひねむる
 
本当にこの言葉に尽きると思う。
西条八十、素晴らしく掛け替えのない詩人でした。
しかしこの終焉の日、私は何をしていたのか記憶にない。
 
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