愛に恋

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チェ・ゲバラの遥かな旅 戸井十月

 

その昔、ジョン・フォード監督作品で『リオ・グランデの砦』という映画があったが往年の西部劇ファンならご存じかと思うが何しろ1950年作品と古い。
リオ・グランデとはスペイン語で大きな川を意味するが1967年10月8日、ゲバラはリオ・グランデのユーロ渓谷でボリビア軍によって捕まり、翌9日、7キロ東イゲラ村で銃殺、遺体は軍用ヘリコプターで運ばれ、両手首から先を切断された後、何処かに消えた。
 
以後、数十年間、ゲバラの遺体の行方に関して60余の説が入り乱れ、そのどれもが真実性を欠き迷走を続けお蔵入りかと思われていたが、ゲバラ処刑の命令を出した、元ボリビア国軍司令官、マリオ・バルガス・サリーナスが遂に真実を口にする。
永年、悩んだ末の決断だったと言う。
 
あの男を殺し、あんな風に埋めたのは間違いではなかったのか。
 
97年6月28日、埋葬場所が特定され、カストロへの別れの手紙を書いてから32年の歳月を経てキューバに無言の帰還を果たした。
ところで、キューバ革命の英雄としてしられるチェ・ゲバラと言えばベレー帽を被り髭を生やし葉巻を吸う姿が印象深い魅力的な男性だが、音に聞こえた名前ほど、この人物についての知識がなかった。
てっきり私は彼をキューバ人だとばかり思っていたが実はアルゼンチン人だった。
 
医者志望で冒険心も旺盛なゲバラ
友人と二人、長期のバイク旅行をする傍ら、各国で搾取される貧しい労働者と接し、社会主義思想が芽生えていったようだ。
アイゼンハワー政権時のラテン・アメリカの実情は確かに憂慮すべき事態のように思える。
アメリカ資本に支えられる中南米各国政府と左翼ゲリラの抗争は果てしなく続き、革命運動に対する弾圧と拷問。
 
例えば1830年から1903年までのコロンビアでは29回の政権交代と9回の内戦、14回の局地的内戦、3回のクーデターと1回のクーデター未遂、更に隣国エクアドルとの戦争、こんな政情不安定な国では生きて行くのさえままならない。
 
さて、ゲバラだが8か月に及ぶ長い旅は1952年7月26日に終わり大学医学部で猛勉強が始まる。
ゲバラは喘息持ちで旅の道中、またゲリラ闘争の期間中、始終、喘息で悩まされ、その為に是が非でも医者に成りたかったようで、記録を見るとかなり優秀な学生だったことが分る。
 
10月、小児臨床医学、育児学をパス。
11月、眼科臨床医学泌尿器科臨床医学、皮膚梅毒臨床医学
12月、法医学、社会衛生医学、整形外科学、病理学、内科学、結核臨床医学、伝染病臨床医学、産科臨床医学、外科学の試験をクリアー、4カ月で14科目をこなし、最後の難関、神経病臨床医学をパスして6月12日、ブエノス・アイレス大学医学部卒業。
余程の集中力がある人物だったのか信じられない程の学業だ。
因みに当時のアルゼンチン大統領は夫人エビータで有名なペロン。
 
卒業後の1953年7月7日、ゲバラは再び旅に出る。
運命の出会い、カストロと対面は1955年7月のメキシコ。
若い頃のカストロを映像などでよく見るが、とにかく大男で立居振舞に迫力がある。
母国解放への激烈で熱情に満ちた話しは何時間でも続く。
カストロは言う。
 
ヤンキー共の侵略と搾取と抑圧は止むことがなく、武器を取って闘う意外にキューバ解放の道はない。私がここに来たのは母国へ攻めのぼるための準備の整え、ヤンキーの傀儡であるバチスタ軍と正面切って一戦交えるためだ。そしてそれは、ヤンキー共に対するラテン・アメリカ解放闘争の一環である。
 
ゲバラ27歳、カストロ29歳になる直前、寒いメキシコの夏に二人は夜を徹して話し合った。
56年11月25日、グラマン号と名付けられた8人乗りの船に82名のゲリラ兵を詰め込んでカストロ達は港を出港、メキシコ湾に乗り出す。
一方、キューバ国内の地下組織のメンバーは壊滅状態でカストロら82名の兵士は孤立無援の状態で二万の敵兵が待ち受ける祖国へ向かう。
12月2日未明、上陸予定地より二キロ外れた地点に上陸。
 
12月5日、82名のゲリラ兵は遭難者のように疲れ空腹に耐え進軍する中を140人の政府軍の待ち伏せに遭い銃撃戦となり3人が即死、ゲバラも肩を撃ち抜かれ79人が26のグループに別れ散り散りになった。
副隊長が捕まり、その場で惨殺され、22人が捕まり二日後に処刑、他の22人は投獄19人が行方不明になった。
上陸して20日目で解放部隊は僅かに12名になった。
しかし、そんな状態になってもカストロは意気軒高。
 
これで、バチスタの命運も尽きたな。我々は、きっと勝つ。
 
カストロの方針は搾取者、スパイ、裏切者は冷徹に処刑し、正面から向かって来る兵士には敬意を表し捕虜にした後に開放するという誠実な態度で、これが敵兵や農民に支持され次第に占領地を拡大していく。
ゲバラは軍医でもあるが隊員のゲバラ評はあまり芳しいものではない。
 
ゲバラの治療や手術を受けるぐらいなら死んだ方がましだという人も居たぐらいで、隊員には虫歯持ちが多く、山中のキャンプでは治療といえば抜歯で麻酔なしの処置に脅える人にゲバラは決まってこう言った。
 
「神に祈れ、こういう時のために神はにるんだ」
 
あとは隊員が喚こうが失神しようがお構いなく力ずくで手術。
革命が成功した後のゲバラは要職に就き日本にも来たようだが、結局、革命の輸出を唱え隣国ボリビアへ同士と潜入。
しかし、キューバ革命とは違い農民の指示は得られず却って懸賞金欲しさに密告者まで現れ1967年10月8日、ボリビア軍との銃撃戦で弾が尽き拘束され、午後7時7キロ先の粗末な泥レンガ作りの小学校に収容。
ゲバラは長いゲリラ生活が祟って、喘息、アメーバ赤痢、肝炎、マラリア、栄養失調、足の傷、肉体の衰え医者の不養生を笑ったらしい。
 
翌9日、ゲバラ銃殺!
誰が押さえても、その瞼は閉じなかったとある。
しかし、いくら死を覚悟のゲリラ闘争とはいえ、ボリビア革命は無謀過ぎる。
理想や熱意に感銘はするものの妻子もあることからして、このボリビア潜入は疑問が残る。
結果は予想通り惨敗、そして・・・!
ゲバラ、最後の映像を。