愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

女たちが変えたピカソ 木島俊介

ブックオフで見つけ、タイトルに惹かれて買ってしまったが、当初、ピカソ絵画の変遷と愛憎入り混じった男女劇みたいなものを想像していたのだが、主体はあくまでも画法であって人物に非ず。例えばこんな記述。
 
愛はいつ時を占めるのか。時はいつ美となるのか。人は美によって救われるのか。この一連の問いは芸術を愛好するものに投げかけられている永遠の謎である。
 
その謎を解くことが出来るならばピカソという人間を理解することが出来るというのである。
私は哲学的な話しが大の苦手、著者のプロフィールを見るに。
1939年生まれで慶応義塾大学文学部、美術史専攻、フィレンチツェ大学、ニューヨーク大学大学院などを卒業した美術評論家
どうりで頭の構造が違うと思った。
寅さんに言わせると「さしずめてめえインテリだな」ということになる。
だいたいピカソの言う「分析的キュービズム」「構成的キュービズム」「総合的キュービズムからして何のことかさっぱり解らない。
ある作家はキュービズムに対してこんな解釈をしている。
キュービズムは客観的世界の真の本質に迫り、それと我々人間との関係を探求しようとした
 
解らない!
 
一度分解したものを再び組み合わせるのではなく、あくまでもひとつのものに見えている形態の中には見えるはずのない側面が表されているような、きわめて有機的な人体表現を発明するに至るのである
 
難しい!
しかし妻オルガにはこんなことを約束させられた。
 
「これからは私の顔がはっきりわかるような絵を描いてほしい」
 
ともあれゲルニカなどに代表される絵には牛や馬がよく登場するがピカソにとっての牛馬とは何なのか?
それはオルガを伴って1917年に見た闘牛場での場面が強く印象に残ったからだという。
 
「死を宣告された犠牲獣の牡牛が、たけり狂って馬に襲いかかり、その脇腹に角を差し込んだ瞬間、馬は死の運命から逃れんとでもするように身をのけぞらせて断末魔の叫びをあげ、そのそびえ立った長い首は最後のオルガズムに達しているペニスのように痙攣的なように見えた」
 
と、こうなる。
つまり、ピカゾの人生はエロに満ちており女性なくしては生きて行けなかったと。
1930年代にはオルガと愛人マリー・テレーズの次にドラ・マールという女性が現れ、
あの有名な逸話、女同士が取っ組み合いの喧嘩をよそに絵を描いていたピカソ
制作中の絵とはゲルニカ、ドラ・マールと一緒に居たピカソのもとにマリー・テレーズが現れたことが発端で喧嘩が勃発。
面白そうな場面だ!
何しろ芸術は爆発ですからね。
43年、フランソワーズ・ジローなる画学生と知り合い二人の子供を授かる。
53年9月3日、フランソワーズは2人の子供を連れてピカソのもとを去った。
フランソワーズの言い分。
 
「彼はサディストでした。彼にスリルを与えるのはただ性交するだけ。
そのサディズムに堪えられなかった」
 
他の女性も同じようなことを言っているが、大体に於いて女性の言い分は絵を描く前に私を凌辱したと主張、果たして凌辱という表現が本当に適切なのだろうか。
ともあれ、フランソワーズは有名な言葉を残して去って行く。
 
「歴史的記念碑と、もうこれ以上生活を共にしたくない」
 
ピカソの言い分を聞くと!
 
「私は恋愛の情にかられて仕事をする」
 
それら総合的な答えとしてピカソの伝記では。
人生の根底にあるのは苦難なのだから、哀しみと痛みとの所産である芸術のみが彼を憂鬱から救うことができる。
最後にピカソの言葉を借りると。
それは物以上のものである。私はいつでも究極的な在り方を求めている。その在り方とは、人が物をどう見るかにかかっている。緑色のオウムは同時にまた緑色のサラダであり、しかも緑色のオウムである。オウムにだけしか見られない人は、その実在を減らしていることになる。
 
う~ん、解らない。
 
私の作品は、人生の神秘の深淵を知った人間、悦びと、夢と、恐れを抱きつつ、その深淵を恋するものとして探索した人間の、全精神を包含している。
 
全然解らない。
 
因みにピカソは分っているだけで9人の女性と深い関係を持っち、4人の子供が生まれ、2人の女と1人の孫が自殺、2人の女が発狂している。
私のような凡夫には理解できない芸術であり一生だったと思うしかない。