愛に恋

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バルト海の死闘 C.ドブスン

 
読書は格闘技だと言われるがまったくだ!
眠気、疲れに打ち勝ち、読んだら備忘録としてブログに書く。
しかしこれが時に難儀を極める。
果てさて、今日は、この壮大な物語をどのように書くか現段階では判然としないままだが、とにかく書き始めるとする。
 
かなり古い映画になるがジャン・ポール・ベルモンド主演の『ダンケルク』という映画があったが見たであろうか。
余談だが今月、そのリメイク版とも言われる『ダンケルク』を見て来たばかり。
これがかなり面白く、いい作品だった。
大戦初期、戦いに敗れた英仏両軍がダンケルクからドーバー海峡を渡って英本土に脱出する内容だが、まず、本題に入る前に大戦に至る経緯を簡単に述べておきたい。
 
1937年にドイツはオーストリアを併合。
次にチェコスロバキアズデーテン地方の割譲を要求。
危機感を募らせた英仏はミュンヘン会議で、これ以上の領土拡張をしないという条件でズデーテン地方の割譲をチェコ抜きで決めてしまう。
その後、ヒトラーは西部チェコを併合、東部のスロバキア保護国とし、次の目標をポーランドの回廊ダンツィヒに定める。
少しバルト海の地図を見てもらいたい。
 
 
             もう少し縮小するとこうなる。
 
 
右上にイースト・プロイセンとあるが、ここは第一次大戦でドイツが負けたために割譲され、事実上のポーランド領になった地である。
つまりドイツ系住民が多数を占める土地で真ん中の黄色い部分の北をダンツィヒという。
いわゆるポーランド回廊でバルト海への出口になる。
1939年3月、ヒトラーポーランドに対しダンツィヒの割譲と回廊の通行を要求。
失地回復という計算だが当然、ポーランドはこの要求を拒否。
ここに第二次大戦は勃発。
2日後、英仏政府はドイツに宣戦布告。
 
しかし、当時、世界最強と詠われたフランス陸軍はあえなく敗退。
連合軍は負け戦となり陸続としてダンケルクを目指す。
フランスの首相はダラディエから第一次大戦の英雄、ペタン元帥に替わりフランスは休戦協定を申込み、イギリス軍は海を渡って撤退。
 
そして攻守所を変え、1945年1月30日のダンツィヒということになるわけで。
バルバロッサ作戦と銘打たれた独ソ戦は言い換えれば絶滅戦争ということになり、それほもう凄惨な戦いであった。
民間人の犠牲者を入れるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人が殺された。
独ソ戦初期、ドイツ軍は共産党員と見なすや容赦なく殺害、そのような映像は今でも見ることが出来る。
 
3年に渡ってスターリングラードは包囲されモスクワまで後、数キロと迫ったところでジューコフ将軍率いる赤軍に負けるということになるのだが、ソ連兵の復讐心は凄まじく、1944年
10月22日、最初に赤軍の手に落ちたドイツ領東プロイセンの街、ネンメルスドルフでは虐殺事件が横行し軍は意図的に規律を緩め、強姦、殺人、略奪はお構いなしという振れが出て「ファシストは皆殺しにしろ」というスローガンの元、街は地獄と化した。
 
その噂を聞いたドイツ住民はパニックに陥り、一路、ダンツィヒへの逃避行となった。
ドイツ最高軍司令部はデーニッツ元帥指揮の下、大規模撤収作戦を遂行。
1月23日から5月8日までの間に202万2602人の難民と将兵が脱出に成功したが、1月30日の朝、ダンツィヒ近くのグディニア港を出港したヴィルヘルム・グストロフ号は、その夜、アレクサンドル・マリネスコ少佐を艦長とするソ連潜水艦S13に発見、追尾され3発の魚雷を土手っ腹に浴びて撃沈。
 
同船は定員約1900人を遥かに超える8000余名を乗せての引揚げで、当日の気温は氷点下17度。
膨大な数に膨れ上がる避難民と迫り来るソ連砲兵の殷々たる砲声の音。
まあ、想像するだに恐ろしい光景だ。
空からの援護もなくバルト海にはソ連潜水艦が待ち構えているとの噂の中、出航するという危険。
復讐戦というものがどれだけ恐ろしいか、この本を読んでいると自殺という二文字が頭をよぎる。
とにかく、史上最大の海難事故はタイタニックではなく、このヴィルヘルム・グストロフ号のことを言う。
因みに救助された人は964人。
 
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