居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

幕末維新懐古談 高村光雲

 
永井荷風はこんなことを言っている。
 
余裕のない現代人にはけっして承継する事の出来ないそういふ昔からなるつまらぬ職業は、手慣れた其の老人の死と共に永劫この世からはなくなって仕舞ふのである。
 
江戸情緒をこよなく愛した荷風散人らしい言葉だ。
おそらく高村光雲も似たような気持ちの中で過ぎし日の思い出を語ったのだろう。
この本は聞き語り的なもので、息子光太郎と田村松魚なる人物を相手に大正11年11月19日から12月末に至る毎週日曜日に光雲翁が語ったものを田村松魚が書き留め、後に出版されたものらしい。
時に光雲翁70歳、光太郎39歳。
因みに田村松魚とは田村俊子の夫である。
 
光雲の本名は中島幸吉、嘉永五年二月十八日生まれというからペリー来航の前年ということになる。
師は高村東雲、幸吉は徴兵逃れのため東雲の姉、悦の養子になり高村幸吉となり、その後、師匠の末妹おきせの養女、若と所帯を持つ。
 
ところで、江戸の昔は世間体などもあり十一、二歳は奉公盛りと言って十年の年季奉公に出されるのが当たり前の世の中だったらしい。
更に年季が開けると一年の礼奉公があり計十一年師匠の下で修業に励まなければならない。
当初、父親の光蔵から勧められた奉公先は大工だったが、棟梁から高村東雲が弟子を一人探しているということを聞き及び彫刻の道に入ったらしい。
文久三年三月十日、十二歳の春で、奉公勤めをするにあたって父が言い放った言葉が現代とは大違い。
 
一度師の許へ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。家に来るは師匠から許された、盆と正月、一年に二度しかない。
また、この近所に使いに来ても、決して家に寄ることならぬ。
 
家に帰るのは十一年後という厳しいお達し。
その十一年後、年季が開けた幸吉は師匠から名前を貰う。
幸吉の幼名は光蔵、その光を取って東雲の雲の字を下に附け、晴れて光雲と名乗る。
世に出るきっかけになったのは明治十七年、日本美術協会に白檀で蝦蟇仙人を掘って出品したことが始まりとあるが、どんな作品か写真がないので分らない。
とにかく作品は三等賞を受賞、それまで光雲は陰の仕事ばかりしてきたので日本美術協会の何たるかも知らなかったとあるが、後年、光雲はこの日本美術協会に深く関わることになるので、ここで日本に於ける美術協会の成り立ちを少し書かねばならぬ。
 
事の起こりは維新後、日本の美術工芸品は衰退の一途を辿り、在来の日本美術は海外に流出する一方、それに危機感を持った人たちが集い、明治十三年、竜池会なる集団が出来たのが事始めで、当初は会員が所蔵している美術品を持ち寄り鑑賞し合って研究することから始まったが、次第に鑑賞側と工人側が一座になって、一緒に話し合えば尚愉しいということから会員数も増え、絵画、彫刻、蒔絵など、諸家を勧誘し、更には宮様を総裁に戴き列記とした会を成立、ここに日本美術協会の誕生がなる。
 
だが、この時代の彫刻師は全て牙彫(がちょう)と言って象牙彫職人主流で伝統の木彫りは衰退。
その後、紆余曲折を経て明治二十二年三月十二日、東京美術学校お雇いという辞令を受け、四月、美術協会の展覧会に光雲は木彫りの矮鶏(チャボ)を出品。
その作品が聖上の御還御に相成り、御嘉納あらせられる。
つまり明治天皇の目に留まり宮内省が購入するということになった。
五月、本官の辞令を貰い教授となり、奉任官五等を拝命。
因みに横山大観は第一期の普通科の生徒として入学。
 
明治二十三年十月十一日、帝室技芸員を拝命、その後、有名な楠公像の制作に関わるのだが、不思議なことに上野の西郷像制作の話しは全く出て来なかった。
如何なる経緯で制作担当になったか、また、像の評価など聞きたかったのだが聞き手、語りて双方がこの事に触れていないのはやや合点がいかない。
 
ところで、光雲という人は華美なことの嫌いな地味なタイプなのか世の時流に逆らって廃りつつあった木彫に飽く迄も拘り、師の教えを生涯忠実に守った彫刻師だったように捉えたが、年季の明けた明治七年頃は多くの仏師が廃業を余儀なくされ、翌八年には神仏混淆の廃止、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる時代に突入する中に於いても光雲の信念は変わらず、幕末、明治、大正、昭和と生きて八十二歳で亡くなった。
 
この間、世の変転凄まじく田村松魚ならずとも世相の移り変わりなど時間をかけて訊きたいものである。
後年、光太郎は父との思い出をいろいろ綴っているが、よく言われる高村親子の確執とは何だったのか、いずれ勉強してみるのも一考。
 
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