居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 田村洋三


發 沖繩根據地隊司令
 
沖繩縣民斯ク戰ヘリ
縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
 
自決を一週間後に控えた昭和20年6月6日夜、沖縄の海軍司令官大田実少将が海軍次官に宛てた電文は世界史にも類例を見ない悲痛な名文として名高いが、今日、太田司令官の名と共に、この全文面を読んだ人は決して多くないと思う。
 
沖縄戦に関しては自決した第32軍司令官牛島満中将、長勇参謀長、そして太田実少将の書籍など出版され、それぞれ読んでみたが、捕虜になった八原博通高級参謀が著した『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』だけは未読なので、何れ機会があれば一読してみたいと思っている。
しかし、最近になって『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』を書いた太田洋三氏の著書に殉職した島田叡(あきら)知事と荒井退造警察部長を扱ったノンフィクションがあると知って俄然、興味を持っていた矢先、偶然にもブックオフで見つけ勢い買ってしまったはいいが意外と難儀を極める本で、読み辛い人名と地理的状況が全く分からず、軍の作戦計画や南部への逃避行など混迷を深めながらも何とか読了。
 
さてと、本題だが当時の知事は現在のような民選ではなく、政府が任命する官選で確か任命権は内務大臣が持っていたと記憶する。
島田知事が沖縄に赴任する前、政府は昭和19年7月7日、沖縄県民の60歳以上、15歳未満老幼婦女子と学童を本土と台湾へ集団疎開させることを決定。
理由はサイパン玉砕で島民5万が軍の懐に入り込み、活動を妨害したとのことで、沖縄本島の場合、42万の島民を5万乃至10万ぐらいまで退去させなければ再びサイパンの轍を踏むことになる、簡単に言えば足手まといことだと思うが、県民意識は家族が離散するのを由としなかったようだ。
 
沖縄は戦場にならないという人も居るにはいたが、県民は差し迫る不気味な戦況を肌で感じながらも「どうせ死ぬなら、一家そろって沖縄の土になる方がまし」という思いが強く、また周辺には米軍の潜水艦も出没するとあっては二の足を踏むのも当然。
果たして10月10日、沖縄は大空襲に見舞われ、いよいよ上陸間近と軍官民を慌てさせる。
 
そんな折、昭和20年1月11日、大坂在住の内政部長で、妻と二人の娘を持つ島田に沖縄県知事の内命が下る、時に島田43歳。
戦火の迫る沖縄赴任に、
 
「私たちはどうなるのですか」
 
という妻の反対を押し切り、正義感の強い島田の決意は変わることがなかった。
実はこれには裏事情があり、沖縄からの脱出を画策していた前知事は19年12月23日「現地軍から要請があった県内疎開を政府と協議する」との名目で上京、そのまま香川県知事に転出し帰って来なかった。
この時期、内務官僚の中には何かと事情を見つけて本土に渡り、帰還しなかった職員が続出。
1月31日、出発に当たって島田が持参したものは以下の物。
 
『南洲翁遺訓』『葉隠』抹茶道具、和服、博多帯、胃腸薬、風邪薬、ピストル二丁、日本刀、青酸カリ。
 
そして・・・!
 
2月7日、米機動部隊はウルシー泊地を出発、沖縄を目指す公算大
 
という軍情報が伝わると『沖縄新報』社説は上司の許可なく戦線離脱する官公吏を痛烈に批判、これに敢然と立ち向かい、優れたリーダーシップを発揮する二人の人物が即ち島田叡知事と荒井退造警察部長ということになる。
米機動部隊は2月19日、硫黄島に襲来。
硫黄島玉砕を経て、いよいよ4月1日、沖縄戦となるが本稿は沖縄戦そのものが主題ではないので戦況経過は省く。
 
沖縄の悲劇は軍が首里撤退を決めたことから始まるが、5月25日、荒井警察部長は内務省警保局長に対し電報を打つ。
 
60万県民只闇黒なる壕内に生く、此の決戦に破れて皇国の安泰以て望むべくもなしと信じ、この部民と相倶に敢闘す
 
県から内務省への通信連絡は27日を持って途絶え、6月18日夕、牛島司令官は決別電報を打電。
 
陸海空を圧する敵の物量制し難く、戦局正に最後の関頭に直面せり
 
死を目前に毎日新聞支局長と島田知事の会話が記録されている。
 
「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られても良いのではありませんか」
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう?」
 
6月21日、総攻撃前に米軍スピーカーの放送が流れる。
 
「只今から総攻撃を開始する、戦闘に関係ない者は壕から出て、東へ行け」
 
そして運命の日、牛島司令官、長参謀長は6月23日午前4時30分、軍司令部壕で自決。
島田叡知事と荒井退造警察部長の最後がどのようなものであったかは分かっていないが、内務省は島田と新井が軍医部壕を出たと思われる6月26日を死亡日と認定。
日本政府は沖縄が米軍政下に入った11月、GHQに二人の安否を照会。
翌年の回答では。
 
該人物は1945年6月中旬、摩文仁に現れたるが最後なり、また二人が俘虜たりし事実も発見せられず。
 
これにより二人の殉職は確実となった。
著者は沖縄空襲で焼失した県庁の代わりにガマと呼ばれる洞窟に身を寄せ執務を執った知事、警察部長の足跡を追いながら、落ち延びて行く過程で臨時県庁とされ長らく不明になっていた14カ所のガマを発見。
その執念には驚かされる。
 
しかしどうだろう!
県民の安全、少しでも多くの人を助けたい。
それに尽力した知事と警察部長。
いくら職責とはいえ文官としての努力にも限度がある。
空襲、艦砲射撃、果ては火炎放射器と村も人も焼き尽くす凄惨な戦い。
 
少なくとも島田叡は辞令を受けた時点で拒否することも出来た。
ましてや家族の反対もある。
しかし荒井は言う。
 
「私が行かなければ、誰か他の人が行くことになる」
 
家族の悲痛な願いを遮って決然と死地に赴く。
私なら出来るだろうか!
自信が持てない。
 
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