居眠り狂志郎の遅読の薦め

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海軍大将加藤友三郎と軍縮時代 工藤美知尋

 
 
明治日本では薩摩の海軍、長州の陸軍などと言われるが、日清戦争時の内閣と陸海軍の主要人事を見ると以下の如くになる。
 
総理伊藤博文(長)外務陸奥宗光紀州)。
陸軍は陸相大山巌(薩)次官児玉源太郎(長)川上操六(薩)山縣有朋(長)
野津道貫(薩)奥 保鞏(小倉)桂太郎(長)黒木為楨(薩)。
海軍は、海相西郷従道(薩)軍令部長樺山資紀(薩)連合艦隊司令長官
伊東祐亨(薩)。
奥 保鞏を除いて全員が薩長
 
日露戦争では首相桂太郎(長)外相小村寿太郎(日向)満州軍総司令官大山巌(薩)陸相寺內正毅(長)海相山本権兵衛(薩)連合艦隊司令長官東郷平八郎(薩)伊東祐亨軍令部長(薩)乃木希典(長)児玉源太郎(長)。
 
その間、加藤友三郎は何をしていたかというのが本題だが、評伝によく見られる出世までの経歴、特に軍人の場合は簡単に昇進の過程が記載される程度で、加藤の場合、出番は日露戦争になるまではこれといってない。
日本海海戦時、加藤は連合艦隊参謀長として旗艦三笠で東郷長官の左に立っていた。
 
友三郎は文久元年に芸州藩下級武士の子として生まれているが、芸州藩は第一次長州征伐の折り幕軍として参戦した経緯がある。
維新後、明治17年に海兵7期として卒業。
日清戦争では砲術長として「吉野」に乗船。
その後、海軍次官鎮守府司令長官を経て、第二次大隈内閣の海軍大臣に就任。
大将に昇進後は、寺内、原、高橋と四代にわたって海相を歴任。
 
しかし、元帥海軍大将加藤友三郎の名は現在では全く忘れられてしまったが「アドミラル・カトー」に対する評価は欧米では圧倒的らしい。
大正10年7月2日、米大統領ハーディングは日・英・仏・伊に対し非公式に海軍軍縮会議を提案。
これに対し、原首相は全権代表に海相加藤友三郎を指名。
 
日露戦争後の日本海軍は仮想敵国をアメリカに定め八・八艦隊、つまり戦艦八隻、巡洋艦八隻を目標としていたが、その維持費は当時の日本の国力からは到底不可能で、ワシントン海軍軍縮条約は日本にとって渡りに船。
議題は英米10の艦船量に対し日本側は7という要望だったが、結局、加藤は対米英比率、6割で条約を可決し自らの手で八・八艦隊構想を葬り去った。
何しろ当時の国家予算内で、32・5パーセントという膨大な額が海軍予算。
 
加藤の名は一躍世界に広まり米敵対路線から日米友好協調路線への転換と受け止められた。
しかし、アメリカ出張中に原首相が暗殺され替わった政友会の高橋是清内閣も短命、元老松方正義と西園寺は協議の結果、首班指名加藤大将を推薦。
大命を拝受し死力を振り絞って政務に励む加藤だったが、既に大腸がんに侵され余命幾ばくもなかった。
 
加藤の方針は将来を見越し英米のように日本も文民統制であるべきだとの主張。
そもそも軍部大臣現役武官制は第二次山縣内閣の時代に出来たものを山本権兵衛内閣の折り、現役に限らず、予備役や退役の将官まで広げ改められていた。
また加藤は軍令部の廃止も提唱しており、かなり思い切った斬新な改革だが、それだけに身内の敵も多かった。
しかし、アメリカは加藤が首相になったことに好意的で、いよいよ日本も平和路線に舵を切り替えたと思った矢先、大正12年8月24日加藤は逝去。
現役総理の死去は原に次いで二人目。
 
その後、勲功により子爵、大勲位菊花大綬章、元帥を賜わるが、もし、加藤が長命であれば昭和5年ロンドン軍縮会議後の海軍部内での分裂や統帥権干犯問題、或は日米開戦も起こらなかったかも知れないと思うとひたすら残念な気持ちになる。
 
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