居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

夢声戦争日記〈第7巻〉昭和20年

 
全くの偶然だが、以前、フォローしているTwitterの人のつぶやきを読んでいたら、古書市で『夢声自伝全三巻』を購入と書いてあった。
調べてみると昭和53年に講談社文庫から出ているらしいが、三巻で約1400頁ほどあるようで実に悩ましい。
私も何処かでこれを見つけたらやはり買うのだろうか。
うんざりだ(笑
 
その夢声だが、やっと戦争日記第七巻を読み終えた。
自伝の方はどのようなものか知らないが日記は文体に悩まされる日々だった。
理由はよく分からないが送り仮名が平仮名とカナに別れており統一されていない。
故に読み辛いことこの上なし。
 
政治家は政局を書き軍人は戦況を書くものだが、この時期の民間人が書いた日記というものをあまり読んで来なかっただけに、はて、内容はと気になるところだったが、これまで過去、六回に渡って書いてきたとおり、家庭菜園、慰問先の料理、または会場の客の入り具合から反応、そして空襲と夢声の目を通した当時の世相と家族の動向、敗戦後の日本を憂えた記事等々、文化人、執筆家として彼の日記と付き合って来た。
中でも取り分け私を悩ませたのは南瓜に纏わる記述の多きこと、これ如何に。
 
出張したらしたで、留守中に空襲で家が焼かれたら南瓜はどうなるのか、果ては終戦当日まで南瓜の育ち具合に拘っているが、ある面、冷静さを失っていないとも取れるが、果たして兵隊に行かなかった者の感慨はこのような落ち着いたものなのだろうか。
玉砕、神風、本土決戦と打ち続く緊迫感はどうも見えてこない。
ともあれ最終巻は20年7月から10月18日まで綴られている。
その7月3日の記述を見ると。
 
一体鈴木首相その他日本の主導者達は、如何なる見通しのもとに戦争を続けているのか。見通しなんてつかずにやっているのか?
 
高齢を理由に大命降下を固辞していた鈴木貫太郎大将だが、おそらく、一度、首班指名を受けるや否や固い信念があったものと信じるが、それは当時の一般庶民には分かり辛いものだったろう。
 
10日。
 
朝から17時まで12時間連続の空襲、午後になると子供達は平気で大通りで遊び大人は平常通り用を足す
 
熾烈を極めた玉砕の島では考えられないような平穏な時間が本土では流れるわけだ。
当たり前のことだが本土には米兵が一人もいないわけだから空襲さえ終われば普段の生活に戻るということか。
いくら戦時下と雖も喰うためには働かなければいけない。
しかし、7月ともなれば既に沖縄は落ち、連合艦隊は壊滅、制空権も制海権も失った日本では連日空襲に悩まされ、何百何千という敵機を前に成す術が無い。
それでも戦争が終わらないと言えば夢声ならずとも、今後の軍の方針が訊きたくなる。
藤沢、辻堂、平塚、小田原がやられたのは17日とある。
30日、我らが夢声先生はのたまう。
 
B29とP51に対する私の関心は、南瓜と胡瓜に対する関心と、同じ程度である。
 
と、空襲の最中でも南瓜のことは忘れない。
8月5日。
 
旅に出て、一か月以上も帰らず、最も気になる一事は南瓜の事也。
 
因みにこの頃の電車の移動は殺人列車といわれるギューギュー詰めで、更に敵の戦闘機の来襲で多数の死傷者を出し、その度に大幅の遅れを出す。
当然、車内には冷房はなく想像を絶する。
6日。
 
B29三機広島に来り、恐るべき新型爆弾を投下す。落下傘につけたる、原子爆弾の如きもの。死者15万とも20万とも言う。戦争の局面これにより一転す。
 
つまり、広島の惨禍は当日のうちに夢声の耳に入っていたわけだ。
7日。
豊川海軍工廠に向かう途中、その海軍工廠が爆撃を受けたことを知り命拾い。
 
9日。
 
午後三時の報道を聴き大いに驚く。
 
つまりソ連参戦を知ったわけだ。
 
ソ連宣戦蝉共頓に黙しけり
 
10日。
 
 
最後の一人となるまで戦う、という文字は勇ましい、私も日本人としてそこまで行きたい気もある、とは言え、ピカリと光ってそれで万事休すでは、戦いではない。
ただ、毛虫の如く焼き殺されるだけのものだ。
 
国体はそのままに
これが日本の唯一の条件だそうだが、敵がこれを容れなかったら何うするか。
その時こそ、全日本が硫黄島になる時であるか?
 
15日。
 
日本敗るる。これで好かったのである。日本民族は近世において、勝つことしか知らなかった。近代兵器による戦争で、日本人はハッキリ敗けたということを覚らされた。勝つこともある。敗けることもある。両方知らない民族はまだ青い青い。やっと一人前になったと考えよう。
 
蝉和尚精一杯に勤行かな
 
しかし、何か哀しい。
夢声はまだ知らなかったと思うが、この日、クーデターを目論む畑中少佐らは阿南惟幾陸軍大臣、森近衛師団長、田中静壱東部軍管区司令官に蹶起趣意書の同意を求めて血眼になっていた、結局、こと破れて阿南陸相、田中司令官は自決。
近衛師団長は惨殺され畑中少佐も自決した。
日本開闢以来の敗戦、予測の付かない今後を思うにつれ夢声の不安も随所に窺われる。
何しろ夢声には妻と年頃の娘が3人も居り、敗戦国家にありがちな婦女凌辱の問題が始終頭をよぎる。
 
20日。
 
丸山定夫君が死んだ。
 
丸山定夫は原爆投下当日、広島に居た。
 
22日。
 
教養低きヤンキーども、舌なめずりしつつ、日本ムスメをモノにせんと、張り切って来るのかと思うと、甚だ屈辱を感じる。
 
さもありなん。
 
9月13日。
 
小泉元厚相自決。
 
9月14日。
 
橋田元文相服毒自殺。
 
9月18日。
 
梅原龍三郎画伯の作品は、果たして何所が好いのか、本当は私には分かっていない。
 
9月21日の記述には考えさせられる。
 
地下鉄のギューギュー詰の中に、アメリカ兵たちも混じり、誰彼に何か訊ねながら、それぞれの目的地に向かって行く。
進駐後まだいくらも経っていないのに、彼等は日本人の中に巻き込まれて、少しの不安も感じていない風だ。大胆なのか、無邪気なのか?彼等の態度から診るに、日本人を憎悪していないことは明らかである。
 
戦争が終わって間もないのにどうして同じ地下鉄に乗って会話が出来るのであろうか。
あの死闘、激闘は何であったか。
一億玉砕ではなかったのか。
以前、私は沖縄を旅した折り、ホテルで旅装を解くや直ぐさまタクシーで海軍司令部壕に向かった時のこと、目的は今も残る太田海軍少将の自決現場を見ることであったが、壕内で数人のアメリカ人と出会い、そのまま自決の部屋も彼等と一緒に見ることになった。
実に奇妙なものだ。
 
敵味方として戦ったのが嘘のように。
太田少将は陸軍の牛島司令官に、米兵迫る、ここで自決する旨の伝聞を送った。
驚いた牛島司令官は米軍包囲網を突破し陸軍と合流するように返電す。
しかし、突破出来ないと悟った太田少将以下幕僚たちは全員、壕内で自決。
その現場をアメリカ人と一緒に見ようとは感慨深いものがあった。
 
10月18日。
 
旅先で見た幼稚園児の御遊戯。
痛く感動した夢声は、この子たちが大人になった時、果たして日本はどうなっているのかと思い巡らせているが、今現在、平成の御代となり来年あたり改元の話しも出て、斯く言う私は夢声が見た幼稚園児よりかなり年下。
昭和20年には、まだ生まれていないどころか両親も巡り合っていない。
 
敗戦、何処へ向かうとも知れなかった日本と日本人。
万歳に見送られて戦地へ向かった兵士たちの帰還。
この先、数十万の餓死者が出るとの噂の中、この時代を生きた人の苦節を佳きにつけ悪しきにつけ、夢声の日記の行間は語っているようだ。
 
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