居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

虹の岬 辻井喬

 
確か初めて「若いツバメ」という言葉を使ったのは平塚らいてうと記憶するが。
明治41年森田草平と例の塩原事件を起こした後、『青鞜』制作に入り、茅ヶ崎に移り住んで5歳年下の画家、奥村博史と同居したのを切っ掛けに友人たちに対して言ったのが「若いツバメ」であったはずだが。
 
さて、今回もまた私の中では重苦しい気持ちで読書感想文となるわけだが、テーマはずばり老いらくの恋。
主人公は歌人川田順
まず「若いツバメ」が平塚らいてうなら「老いらくの恋」とはいったい誰が言い出した言葉なのか。
戦後、老いらくの恋とスキャンダラスに書き立てられた言葉は川田本人が歌の中で詠んだものだった。
 
墓場に近く 老いらくの 恋は恐るる何ものもない
 
川田順の経歴はなかなかのものである。
実父は備中松山藩、幕府最後の筆頭老中板倉勝静の家臣で思想的指導者でもあった
川田甕江(おうこう)。
戊辰戦争松山藩は朝敵になるが川田甕江は赦免され、その後の明治26年、皇太子で後の大正天皇になる東宮の侍講となる。
その三男が順である。
 
順は住友に入社し立身出世を繰り返し、いずれは総理事になるかと思われた昭和11年、突然、誰に何の説明もなく退社した。
当時の住友といえば財閥で、総帥を目前に控えての辞意に関係者は驚いた。
時に川田順、54歳。
理由として挙げられるのは二つ。
 
陸軍からの依頼により重工業関係の国策会社に参加するかどうかで住友代表として陸相に会い、三井、三菱、古川は参加すると言ってきているが、住友はどうするのかと問われ、はっきり拒否したことに次いでニ・ニ六事件の処理に不満があったこと。
 
そもそも川田は16歳の時より、佐佐木信綱の門下でもあり、第一回日本芸術院賞の受賞者で、これを機に下野し「もっと自由に歌を作りたい」という希望を持っていたらしい。
そして戦後、川田は皇太子の作歌指導を務めることになり、親子二代に亘って天皇家に仕えることになるのだが、東宮の御歌指導を辞任した昭和23年、問題の女性に出会う。
相手は京都大学経済学部教授夫人で歌人鈴鹿俊子。
既に川田の妻は死没しており独身なのだが、何と27の年齢差がある人妻に恋し、苦しんだ挙句の自殺未遂となった。
 
一方、俊子は3人の子持ち、しかし夫からの暴力や暴言に悩みぬく生活の中、尊敬する川田からの告白。
思い余って家出、そして離婚。
念願成就、晴れて二人は結婚するわけだが既にこの時、川田は60半ば。
斉藤茂吉とは同年生まれだが、ある日、こんなことを質問されている。
 
「つかぬことを聞くが、あちらの方は大丈夫なのかね」
 
もし、川田が男として現役なら、どうしたらそれが可能なのか、いい方法があるのか医者の茂吉が聞きたかったとある。
川田の方は逆に恋愛経験豊富な谷崎潤一郎に年下女性との付き合いの秘訣を訊いている。
 
ところで、戦後と現在では年齢の概念もかなり違ってきていると思うが一体、老いらくというのは何歳頃からのことを言うのだろうか?
しかし、歌人や詩人の考えることは奥深く興味が尽きない。
こんな言葉が載っていた。
 
吉井勇が放蕩の中で、それゆえ積み重ねなければならなかった離別の奥に見たのは、人間の情の薄さであったか哀しさであったか」
 
その吉井は言う。
 
「われまだ老いを悟らずといへども、漸く竹石の情を解するに到り」
 
そして川田は老齢になり悟る。
 
近松を読み直してみると、彼は義理と人情を対立するもののように扱いながら、結局は愛の勝利を描いていることが、今は昔より強い共感を持って読める」
 
「旅立ちに日のよしあしを選ばぬは落人の常なれや」
 
「ああやって水に揺れている月が実在なのか、空に懸っているのだけが本物なのか、というようなことを時に考える」
 
因みに佐良直美はその子孫だとか。
 
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