居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

芥川追想

 
追悼文だけで編纂した岩波文庫というのが嘗てあっただろうか!
この手法なら明治以来、多くの文豪の死を、それぞれ一冊の本に纏め、いくらでも上梓できる。
芥川に限らず、是非、取り組んでほしいテーマのように思うが。
しかし、何故今回、芥川だったのか。
一読して思うに近代文学史に於いて芥川の自殺ほど文壇に衝撃を与えた事件は他になく、それだけに、当時の名だたる文士がこぞって追悼文を書いたようだ。
 
実に芥川の交遊関係は広く恩師は勿論、先輩、同僚、後輩、女中に至るまで多士済々の人物の追想が網羅され、読み応えは充分。
だが、如何せん、秀才揃いの名文家だけに文学論、芸術論は元より芥川の哲学まで掘り下げられては一介の読書人たる私は少々お手上げ。
それにしても大正文壇の出色たること素晴らしい。
綺羅星の如く登場する交遊録は読んでいて殊の外愉快。
少し長くなるような予感だが今日は、それら天才や文豪が芥川に付いての思い出や印象をどのように書いているか箇条書きに示したいと思う。
まずは志賀直哉から。
 
私は京都へ出て、子供に三輪車を買い、重いのを担いで帰って来ると芥川君と滝井君とが自家(うち)で待っていた。間もな里見と直木君とが来て、賑やかに話した。
 
凄いですね、こんな日が実際にあったんですね!
さらに!
 
その時一緒だった梅原(龍三郎)と丁度同じ方向なので、二人は同じ自動車で帰って行った。そしてその時芥川君は梅原の家へ寄ったとか、あとで梅原は「却々(なかなか)気取屋だね」と云っていた。
 
梅原龍三郎と芥川が同じ車に乗って帰って行った!
想像がつかない。
 
いつぞやの寒い夜、その晩彼は敷島を百八十本近く吸ったものだ。
そうして僕はそれを彼の健康の為に窘めると彼はたわむれるように、
「吸っても悪し、止めても却って悪し、つまりな同じことだよ、吸い度いのを吸わないでいるのは矢張り不愉快だよ」
 
窘めているのは佐藤春夫
知らなかったが佐藤春夫と芥川は同年生まれ。
 
実に久しい間、私は自分の胸中を打ちあけて語るべき、真のよき友人を持たなかった。稀に芥川君を友に得たことは、自分の物寂しい孤独の生活で、真に非常な悦びであり力であった。
 
人は百人の友の中から、その一人を失うことは苦痛がすくない。けれども僅か二人、もしくは三人の友の中から、その一人を失うことは耐えがたいかな。
彼れ死してどこにまた第二の芥川があり得るか、どこにまた私の芸術を、私の詩を批評してくれる人があるのか。
 
と、酷く嘆いているのは萩原朔太郎で、実に、私の好きな朔太郎はここまで芥川のことを思っていたんですね。
萩原言うところの、もう一人の友とは、おそらく室生犀星だろう。
三人で飲むこともしばしばあったようだ。
最後の別れの場面はこのように書かれている。
 
夜の雨中を田端の停車場まで送ってくれた。振り返って背後をにると、彼は悄然と坂の上に一人で立っている。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振って彼に謝した。そして実に、これが最後の別れであったのである。
 
死を決意した芥川と孤独の裡に生きた朔太郎のほっそりとした面影が浮かびそうで、その場面を想像してしまいますね。
 
正宗白鳥の芥川論は作品を透徹して素晴らしいが私にはやや難解。
こんなくだりがあるが、これは芥川の作品中の言葉なのだろうか。
 
酒色を恣にしている人間がかかった倦怠は、酒色で癒える筈がない
 
なるほどね、確かに。
 
自然主義以来の常套に習って、凡庸貧弱な自己の日常生活を書く外に能のない多くの新進作家に比べると、芥川氏の態度は、遥かに賢明であった。芸術的天分の傑れていたことをも証明される。
 
これも正宗白鳥の評だが、よく芥川の本質を捉えているの言っていい。
しかし、斯く言う正宗白鳥自然主義派なのだが。
 
芥川は聡明でお洒落で、それでいてチョット間が抜けており、かなりちぐはぐなところがあったり、非常な文化人であると同時に飯をきたならしく食い乍ら、ペチャペチャ喋るといった様な、一見野卑な一面もあった。また非常にきれい好きで、所謂明窓浄几趣味を口にする一方、余り上等でない悪所通いをやったりするといった風で、かなり矛盾したところを持っていた。
 
とは、松岡譲の追想だが、何で読んだか忘れたが芥川という人はとても立派の逸物の持ち主だったと聞いたことがある。
何でもその筋の女達には頗る評判が良かったとか。
 
自殺者の心理は自殺者自身にも解らないと彼は云っている。もし仔細に考えたなら、彼の自殺の動機たり得る事実が、いくつか数え上げられるかも知れない。しかし自分はそれ等の総ての動機は第二義的のものであって、第一のものは、彼の頭が彼の生活力を追い抜いたためだと思う。彼の生きていく力が、彼の休息なき頭を持て余したためだと思う。
 
だとするなら実に痛ましい。
これは広津和郎の弁だが広津は自著の中で芥川と誰かもう一人、画家と三人で女郎屋に上がった時のことを書いていたが。
 
ところで、大正8年当時の著名作家の原稿料が載っているので書いておきたい。
新進中堅作家と言われた久米正雄菊池寛広津和郎宇野浩二水上滝太郎久保田万太郎などは大体、四百字一枚六十銭から二円内外。
芥川は二円五十銭で先輩作家の田山花袋徳田秋声正宗白鳥と殆ど同額。
永井荷風谷崎潤一郎志賀直哉武者小路実篤などの諸先輩に伍して、いささかもひけをとらぬ高額であったと書かれている。
 
話しを先に進める。
 
本郷伊豆栄で晩飯を食べての帰途、神明町の小さい喫茶店にお茶を喫みに這入っていった。端なく芥川君と萩原君との間に議論が起こり、議論の嫌いな僕は二人の様子を見ながら煙草をふかしていた。萩原君は蕪村が芭蕉より面白いとか偉いとか云い、芥川君は芭蕉のほうが偉いと云った。
 
更に!
 
その勢いは恰も芭蕉が親兄弟か何かでででもあるかのような語調であった。
逝去二か月程前だったので勢いが勢い立つと血相をかえるところがあったのである。
 
と書いているのは室生犀星だが、議論に参加しないまでもその場に居合わせたかったものだ。
ところで昭和2年6月20日、川端康成は友人を連れだった佐佐木茂索宅を訪ねた時のっこと偶然、珍しい来客があったとある。
芥川だが、これまでどの文献を読んでも芥川と川端の邂逅というのは唯の一度も出て来なかったがやっとこの本の中に見つけた。
二人に面識があったことが分ったので私なりに一安心。
 
さて、芥川はヘビースモーカーの上に大変な速読術の持ち主だったと聞いたことがあるが、下島勲という人が本人に確かめたところ、芥川の言うには普通の英文学書なら1日1,200頁は楽だと答えたらしい。
これは大変な速度で訊いた方も驚いている。
流石に凄い集中力だと言わねばならない。
 
最後に女中の森梅子は凡そこのようなことを言っている。
芥川と初対面の日、梅子はきちんと坐って手を衝き「どうぞよろしく」と言うと先方も「どうぞよろしく」と丁寧に返答したそうだ。
芥川家では奥と女中、下女の区別はなく寝所も普通に居間で床を取り、食事も冷や飯や余り物と違い、家中全員同じようなものを食べることに驚いている。
更におやつまで支給されたとある。
芥川にはそういう差別意識がなかった証拠ともいえる。
 
そして迎えた7月24日の朝。
奥様が驚いた顔をなさって、「もうだめです」「早く」「医者」といった言葉を聞いて梅子は芥川の部屋に水を持っていった。
奥様は一生懸命、先生をお呼びしていられましたが先生はもう冷たくなっていられました。
 
主治医の下島勲が呼ばれ注射などしていたが!
 
「もう、諦めなければなりません」
 
と首をうなだれて仰有った先生の眼から涙が下りました。
七時ころ、小穴様が、お出でになり、先生の死のお顔を写生していらっしゃった。
それがこのスケッチ。
 
 
よく、芥川のことを蒲柳の質という言葉で表すことが多いが、繊細で思い遣りがあり、あまりのも芸術的資質の高い人だったのだろうか。
しかし、切ないというか哀れさを誘う死だ。
これだけ多くの友に恵まれながら、結局はむざむざと死なしてしまった。
戦後まで生き延びて、その後の谷崎や志賀との『文芸的な、余りに文芸的な』論争を展開させてほしかった。
 
因みに表紙の写真は南部修太郎という人が大正10年3月10日に撮ったもの。
死後、送料を含め1枚3円で希望者に売られたらしい。
 

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