居眠り狂志郎の遅読の薦め

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インパール作戦従軍記 一新聞記者の回想 丸山静雄

 
第二次大戦の三大決戦と言えば、エル・アラメインの戦い、スターリングラード攻防戦硫黄島の戦いとなるが、どれもこれもうんざりだ。
ロンメルとモントゴメリーが北アフリカで雌雄を決したエル・アラメインの戦いは灼熱の砂漠で激闘、両軍を悩ませたのは蠅と飲料水、それと燃料。
イギリス軍は蠅の大群に手を焼き、師団長命令で「ハエ撲滅作戦」まで発令されたくらいで、見渡す限り砂漠での戦いなんてとてもじゃない。
 
スターリングラードの攻防戦は赤軍、枢軸側合わせて200万もの死傷者を出し飢えと凍傷に苦しむ戦いで包囲されたパウルス元帥はついに降伏、投降したドイツ兵はほとんど生き永らえることが出来なかった。
 
一方、硫黄島を守る我が栗林兵団はどうか、制空、制海権ともに敵に奪われ、日々、擂鉢山の中に蟻の巣のような洞窟を掘り敵の上陸に備えた。
映像などで見れば分るように、あの凄まじい艦砲射撃と空爆にただひたすら、壕内で耐え忍ぶという恐ろしさ。
私なら確実に戦闘前に病死か精神を病んでいるだろう。
 
しかし、それに勝るとも劣らぬ戦い、それが世に悪名高いインパール作戦だ。
いったい、これを立案作成した牟田口中将はどういうつもりなんだ。
戦後、何故、腹を切らない。
前置きが長くなったが、この本はよりによって、あの戦いに自ら志願して従軍した新聞記者が作戦失敗後、40年の時を経て書いたものだが、まあ、その敗走の日本軍が辿る惨たらしさといったらない。
 
本書を執筆するにあたって著者は当時は知り得なかった作戦内容を充分研究してから書いているが、それこそ馬鹿でかいビルマ地図など参照しながら見ていかないと全く分からい山岳、河川、部落名、地名、また文明と遮断された多くの山岳民族など出てきて読み辛い。
 
とにかく行軍は想像を絶する。
世界有数の降雨量を誇る地域で一日の雨量が何と千ミリというから驚く。
河には3メートルを超す大魚が棲みトラ、豹が生息する密林地帯。
さらにマラリアチフスコレラ、風土病、毒虫、蛭と、こんな所で寝食など出来たものではない。
 
さらに南方軍総司令官寺内大将を通じて方面軍から第十五軍に下達。
対するは英印軍、つまりイギリス、インド軍だが日本側にもインド軍が参加。
インド独立義勇軍である。
 
方面軍兵力は総勢13万。
牛、馬、象も連れて行くという途方もない計画で、作戦の趣旨は援蒋ルートの遮断、重慶政府の屈服と日中戦争終結
インド独立の支援、英米支連合戦線を分断して太平洋戦争の解決という壮大なシナリオのはずだった。
しかし、人跡未踏のような地の行軍、食料20日分の携行、あとは現地調達。
 
だが、夢儚く、常に空爆の恐怖に晒され物量共に勝る連合軍に完敗。
そして、あの名高い白骨街道と称された道を敗走するわけだ。
熱帯雨林地区では1週間もすれば死体は白骨化するらしい。
死屍累々、食料なく、武器弾薬は捨て置き髪ひげは伸び放題。
痩せ細り、発狂し、行方不明、重症者、歩行も困難な状況に立ち至った。
豪雨と悪路を何とか退避して来ても立ちはだかる幾つもの河川。
 
舟は一つしかなく規律を失った兵たちは順番を巡って争いが起き、濁流に呑まれて流される者、気力を失う者と統率の取れなくなったただの集団と化してしまう。
うだるような暑熱、沛然たる大雨の中、いつ、果てるともない野営生活。
薪を集める者、野草を摂る者、筏を作る者と、とにかく渡河しないと生き残れない。
更に昼は偵察機、機銃掃射、そして英軍の追跡。
 
第十五軍の被害状況。
 
生還者   31,000
犠牲者 123,000
 
英印軍
 
死者  15,000
傷者  25,000
 
体力の消耗、空腹、杖一本で退却するなど惨憺たる現況であった。
いったい、牟田口廉也中将とは如何な人物だったのか。
作家の故児島 襄氏によると。
 
「真情性と猛気を持ち、まっしぐらに進む戦いを好み、いったん、そうと思い込めば
 その思い込みを思い詰に、確信を信念に、さらに信仰にまで高めてしまう」
 
とある。
高木俊朗『抗命-インパールⅡ-』 によるとこんな場面がある。
 
牟田口軍司令官が、藤原参謀の机の所へやって来て、私達部付将校の前でこんな事を言った。

「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」

と、いとも弱々しい口調で藤原参謀に話しかけた。私達は仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。彼は本当に責任を感じ、心底からこんな事をいい出したものだろうか。自分の自害を人に相談する者があるだろうか。彼の言葉は形式的な辞句に過ぎないものではなかろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンと来た。藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。司令官には一瞥もくれようとせず、表情すら動かさず、次のようなことを激しい口調で言われた。

『昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります』

と言って相も変らず仕事を続けている。取りつくしまもなくなった司令官は『そうか、良くわかった』と消え入りそうな、ファッファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、参謀の机の前から去って行った。
 
最後にインパール街道に面したところに建てられた英軍戦死者の記念塔にはこう書かれているとか。
 
「あなたが故国に帰ったならば、私たちは故国の人々の明日のために戦って死んだ
 ということを伝えてください」
 
因みに牟田口廉也元中将が死去したのは昭和41年8月2日である。
 

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