そんな夢二が最も愛した女性はおそらく笠井彦乃だろう。
彦乃は細面の柳のような麗人で長髪、なで肩、理想のモデルでもあったようだ。
夢二画の特徴は憂いと孤絶、清純と頽廃、そしてS字形に腰をくねらせる姿。
多くの書物に彦乃25歳で死去とあるが、正確には数え年でということになる。
今回の本は夢二の著作から彦乃に関するものだけを編集して発売されたらしく、詩と散文のようなもので構成されている。
略歴で言えば彦乃は、妻たまきの後の女性。
たまきと共同経営している港屋の常連で紙問屋のひとり娘。
妻との果てない諍いに疲れた夢二の前に現れた13歳年下で美術学校の日本画科を卒業したばかりの彦乃。
駆落ちのように京都で暮らし始めた二人の前に立ちはだかる父。
体調を崩した彦乃を入院させ、自らの監視下に置き夢二との面会を激しく拒絶。
二人の最後の逢瀬は大正8年3月5日で、東京の病院に転院していた彦乃に従弟が手引きして短時間だけ面会が叶うが翌年、23歳という若さで召された。
夢二の失意は如何ばかりだったか想像を絶する。
ところで、夢二という人はかなり鋭い観察力の持ち主だと思うのだが。
例えばこんな文章。
男は結婚の第一夜から女を動物にする。
そして女は完全に動物になるが、男は、女の中の動物性と霊性との見分けがつかなくなる。結婚の不幸はそこからくる。
母親は、彼女が嘗て娘であったことを思出すことで、彼女の娘を理解することが出来るが、父親は彼が嘗て青年であったことを、決して思出すまいとする。
だからこの娘の恋人にとって、母親は屡味方であるが、父親は不倶戴天の敵である。
昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等等の言葉があった。今は一つしかない。「I LOVE YOU」
彼女は、毎朝鏡を見る。どうしたら美しく見えるだろうかと。
彼女は、毎晩鏡を見る。どうしてそんなに美しく見えたかと。
何だって、愛するものを憎まなければならないのだらう。
何だって、憎んでゐるものを愛さねばならないのだらう。
夫婦だからだ。
恋人同志は、愛情も感覚もすっかり浪費してしまってから、あわてて結婚する。
なかなか卓見だね!
こんな詩もある。
鍵
「そんなに沢山の鍵をどうなさるの?」
女がたづねた。
「女の心の扉をあけるのだ」
男が答えた。
「一つの鍵ではいけないの?」
「そうだよ、女はどれもこれも異なった鍵穴を持ってゐるからね」
「あなたはいつか女の心をあけたことがあって?」
「一度もないよ。どの鍵を持っていっても合はなかった」
「そうでせうね。女の心っていふものは、すこし虫がよすぎるわよ。
教へてあげませうか。
あなたはね。
ほんたうのあなたの鍵だけ持って
あとはみんな悪魔にやっておしまひなさい。
そしてあなたはあなたの鍵で
たった一つのあなたの鍵穴をお探しなさい。
きっとどこかに
あなたを待っている娘があってよ。
「女はどれもこれも異なった鍵穴を持ってゐるからね」
確かに言えてる。
夢二は当初、画家になるか詩人になるか迷っていたらしいが、結局、両立したわけで双方の才能を開花させた。
ところで、京都の清水寺に行く途中に夢二の旧宅があるが、そこが彦乃と暮らした家なのだろうか?
現在は改装され土産物屋になっている。
さて、夢二が終生離さなかったプラチナ指輪の消息だが、現在は金沢湯涌夢二館で見ることができるそうだ。
内側には【ゆめ35しの25】と刻まれ、しのは彦乃の事で数字は年齢を表している。
一度、見に行きたいものだが。
最後に私の好きな詩を。
かへらぬひと
花をたづねてゆきしまま
かへらぬひとのこひしさに
岡にのぼりて名をよべど
幾山河は白雲の
かなしや山彦(こだま)かへりきぬ。
かへらぬひとのこひしさに
岡にのぼりて名をよべど
幾山河は白雲の
かなしや山彦(こだま)かへりきぬ。