城中焼亡埋骨墳
「じょうちゅう、しょうぼう、まいこつふん」と書いてある。
この辺りは旧大阪城内になるのか。
敵方の薩長軍の兵士が彼等の遺骨を埋葬し武士の鑑としてこの石碑を同年七月に建立したらしい。
私の記憶では確かこうだ。
鳥羽伏見の戦いは慶応四年の正月明けの三日ごろからだったか。
二人は兄弟。
将軍慶喜の恐れは朝敵になることの一点のみ。
それを悲観しての幕臣達の自害であったか。
この年、西暦では1868年。
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