居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件 加藤康男

 
私が解釈するところの「慟哭」とは最大限の哀しみと涙という意味になる。
無分別に涙の洪水に哀しみと共に押し流されていく一片の木の葉のようなものだ。
これから書くことは現代史の闇に葬られた、まぎれもなく慟哭の叫びで、読んで哀し、聞いて身震い、見て慄き、怒りに震え、血が煮えたぎるほどの恨みを覚える、将に聞くだに耳が腐るという鬼畜の所業である。
私が言うまでもなく、途中、著者もこのような断りを入れている。
 
あまりにも凄惨かつ鬼畜のような猟奇的行為が語られ続け止まらない。
私は幾度も、もう引き写すのをやめようかと、キーボードから指を離したぐらいだった。読み始められる前に、どうかある覚悟を持たれて読み進めていただきたい。
また、途中で気分が悪くなられた方はどうか本を伏せていただきたい。
体調を崩すほどの蛮行が続くからだ。
けれど、これが実際に中国兵によって行われた残虐行為なのだ。
 
このくだりは、読み進めて205頁目にある。
まだ、昼食を食べていなかった私はここで一端、本を閉じ場所を変え、食後にモスバーガーに移り、そこに書かれている問題の証言記録を一気呵成に読んだ。
あまり感情移入をし過ぎると、夜、うなされ、復は夢に出そうな気がするので。
事実、今日は2時間半しか眠ていない。
 
それほどの蛮行が、どういう訳か現在の日中間で問題の棚上げではなく両者とも触れようともしないために、今を生きる多くの日本人すら知らない事実となってしまった。
故に私は読む、供養のためにも。
さて、今回の読書感想文は長大なものになりそうだなので、遠慮される方は、どうぞスルーして下さい。
 
はじめに、私が知り得る限り、近現代史に於いて邦人の大虐殺事件は3件ある。
 
1.明治4年、台湾で起きた琉球漁民殺害事件。
   漂流した琉球人54人が原住民に殺害され、日本は清朝政府にただちに抗議。
   この時に登場したのが「化外の民」という表現で簡単に言えば台湾のことは預か
   り知らぬという返答。よって、政府は明治7年、台湾出兵に踏み切った。
     征韓論争で西郷が下野した翌年のことである。
 
2. 日本の言うところの尼港事件。
  大正9年3月、ロシア、ニコラエフスクで起きた大虐殺事件。
  領事一家、居留民、駐留守備隊を含め日本人犠牲者の数は判明しているだけで
  731名、ほぼ皆殺しにされ、街は赤軍部隊の破壊により廃墟となった。
  時の首相は原敬
  国会はこの問題で紛糾。
  西にレーニン、東に原敬と言われた時代のこと。
 
3. そしてこの通州事件ということになる。
 
ところで、近代に於ける中国史というのは実に難解を極める。
義和団事変を経て清朝滅亡後に始まる国内の動乱。
一回や二回読んだぐらいでは到底解らない。
袁世凱孫文の権力闘争。
蒋介石奉天軍閥張作霖の覇権争い。
張作霖爆殺と関東軍
張学良と蒋介石
つまりは群雄割拠のような時代に突入するわけだが、いつの世も動乱期に登場する
人物は多い。
 
さて、本題に入らなければならない。
通州という場所は直線距離にして北京の東方、およそ20㌔。
嘗ては通州城なるものがあり周りは城壁で囲まれていたらしいが、今日、そのよすがを見るものは、どういう訳かものの見事に無くなっているらしい。
結果、事件を思わせる痕跡や建造物は何も残っていない。
城まで壊してしまうとはどういうことか?
 
先にお断りしておくが事件に至る経緯を説明するに、私は一介のブロガーであってプロではないので、なるべく間違いのないように書くが至らないところがあったらご容赦願いたい。
 
かなりややこしい話しになるが北支の通州一帯は華北分離工作によって南京政府から離脱した親日家の殷 汝耕(いん じょこう)が設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所ということになる。
因みに冀とは河北省のことで冀東とは、その東部全域を指す。
通州城内には総隊長、張 慶余(ちょう けいよ)率いる冀東保安隊が日本人居留民を守るために駐留していたが、南京政府は冀東防共自治政府に対抗して冀察政務委員会を設置。
その委員長が宗哲元。
簡単に言えば日本にとって冀東防共自治政府は味方で冀察政務委員会は敵という構図だった。
 
そして、例の西安事件蒋介石が逮捕されたのは昭和11年12月12日、逮捕したのは張学良軍。
しかし、敵方の宗哲元は昭和12年2月、土肥原賢二中将を最高顧問として招聘すると表明し、これで親日を装い、冀東、冀察という二つの政府が出来たと著者は言うが、これを日本側の華北分離政策の成果とみるか、蒋介石の巧妙な深謀遠慮と見るかは難しい判断だとある。
土肥原賢二A級戦犯として戦後死刑。
 
西安事件を契機に国共合作となり、運命の昭和12年7月7日、盧溝橋で宗哲元軍麾下の第29軍と支那駐屯軍は戦闘状態に入る。
 
危険を感じた邦人は次々と北京を脱出。
その中には、安全地域と見られていた通州を目指して脱出する邦人も多く、その避難先の通州城内で7月29日の深夜3時頃、本来、邦人保護が任務であった冀東保安隊が寝返り、ここに陰惨を極めた大殺戮事件が起きる。
それはもう殺戮というよりは屠殺と言った方がよい。
保安隊総勢は城の内外を含め5800名。
日本人は守備隊、特務機関、警察、軍属を入れ163名がほぼ全滅、居留民225名以上も虐殺された。
 
問題は、その虐殺の方法である。
居留民の中には無論、女、子供、妊婦を含め、抵抗する者も当然いたが容赦なく殺害された。
さて、ここまで書きながら問題の核心に触れるかどうか悩みに悩んだ。
やはり詳しくは書かない方がよかろうという思いと、何が起こったのかを知ってもらいたいと言うせめぎ合いで実は数日悩んだ。
が、結論を言えば書くことに踏み切った。
 
人が想像し得る最大限の残虐行為とは何か。
これはひとり中国だけの問題ではなく、世界史に多く見られたことなのだが。
まあ、それはいい。
さて、居留民はどうなったのか?
 
子供、女、妊婦、男は?
怖ろしいのは保安隊には小銃以外にも、青龍刀を持つ者が多く存在したという事実。
あれを見たら、もう正常ではおれないだろう。
私も子供時分、日中戦に従軍した父からよく話しは聞いていた。
 
戦闘経過は午前3時頃から始まる。
寝込みを襲われた守備隊は張慶余率いる保安隊3300名に対し3時間も抗戦を続けたらしい。
日本人は、それまで宗哲元軍麾下の第29軍の襲撃だとばかり思っていたが、保安隊の軍服をみて驚く。
保安隊は日本軍が軍事教練した部隊であるからして当然だ。
感動的なのは支那駐屯軍司令部軍属扱いとなって冀東政府実業庁植棉指導所で働いていた石井亨(25)と妻茂子(22)の最期。
殺戮が行われている最中、最後の力を絞って夫が書いた血染めの遺書。
公館では無抵抗のまま10名の仲間が襲撃を受け石井は自らの血糊で息絶える寸前に手帖に書く。
 
「6時30分、襲撃さる。残念」
「バンザイ。アトヲ頼ム」
「パパ、ママ、二百五十円、正金ニアル」
「ニギヤカニユクヤ三途ノ河原カナ」
 
絶命した夫人を左手で庇うように抱きながら。
本の表紙にある写真は昭和12年1月8日、大連で結婚した時の二人。
さすがに、この場面、涙腺が熱くなってきた!
そしてこの後、日本軍の抵抗が止んで、何処からともなく現れたのが学生服のようなものを着た、もはや軍隊とは名ばかりの匪賊、蛮族、教導隊の殺人集団。
 
スローガンは「すべての日本人を殺せ」だった。
略奪、暴行、強姦など死体は男女の区別もままならないほどの凌辱と暴行を受け中国古来の陰惨な処刑が行われた。
彼等の正体は国民党配下の特殊武闘集団で教導隊に紛れ込んでいた殺人集団。
では、その核心を。
 
『死刑全集』という本を読むと凌遅刑という処刑の実際の写真が載っているが、通州に入ったある日本人はこの刑が行われたことを記録している。
全集の解説にはまず、声が出ないように喉笛を切る、そうして於いて肉を鋭利な刃物で削いでいく。
死の前に凄まじい苦痛を与える為である。
この旧弊を改めたのは朝鮮総督となった斉藤実らしいが、その談話などがあれば読んでみたいものだ。
先を続ける。
 
射殺、殴殺、地べたに頭を叩きつける
腹を裂いて腸を出す
丸太に縛り付け逆さに立て切り刻む
鼻に針金を通して引き摺り回す
首に縄をかけて馬に引かせる
腕や脚の筋肉を削る
陰部に棒を差し込む
陰部を銃剣で裂く
 
顔面に毒薬を塗布する
妊婦の腹を裂いて子供を引き摺りだす
腹をさいて腸を取り出す
手足を切り刻み自由を奪った上で集団レ○プする
男子は陰部を切断される
目をくり抜く
耳鼻を削ぐ
手足の指を裂く
 
では、通州を守る日本軍の本隊だった萱島高中将の部隊はどうしていたか?
保安隊は襲撃するに当たって連絡網を全て遮断。
本隊は27日から通州城外で宗哲元軍麾下の部隊と戦闘。
危険が去った段階で通州から30㌔離れた地区へ移動。
連戦で兵の消耗甚だ激しい中、通州平坦部の辻村憲吉中佐が電信室を改修、無電を回復させ急を通報。
そして以下の返電あり。
 
30日午前2時稍々過ぎ豊台発無電にて萱島部隊の主力赴援の通知あり。
全員元気百倍払暁を迎ふ。
 
その萱島部隊は通州は安全だと思っているのに、何故今、大敵を前に反転するのか判らず憤懣やる方なかったようだ。
何しろ2日前に通州を後にしたばかり。
「敵を背にしての行軍は恂に士気振るわず」とある。
連戦の疲労に増して完全装備の背嚢の重さも加わり、30㌔の夜間行軍は並大抵ではない。
 
桂中尉の手記。
 
摂氏40度の炎天下、鈍足の連隊歩兵中隊は逐次後へ残され、通州城門に辿り着いたのは31日、午前2時頃。
先行した連隊主力は何処へ行って何をしているのだろうと不信が募る一方。
城門守備の歩哨から初めて知ったことは「味方と信じていた保安隊が叛逆して攻撃をして来、為に日本守備隊は包囲せられ居留民の大部は殺害せられた、連隊長は守備隊に位置し敵を掃討中である」と。
 
初めて知った愕然たる事実を闇黒たる雨の中で部下に伝えたその瞬間、それまで足腰の立たなかった部下や、私の強行軍を怨んでいた輜重兵までがガバっとばかり立ち上がり「前進用意」の合図ももどかしく、その時までの落伍ぶりとはまるで別人のように歩き出したが、日本人の家を訪ねて見れば、その居室で到る処、惨状が展開されて居た。吾々が一日早く到着して居れば良かっただろうにと切歯しつつ合掌した」
 
萱島部隊の到着を見た生存者たちは軍靴の響きを聞きつつ、生き返った。
 
日本兵が一個分隊くらい通るのを見て、力一杯棒切れについた日の丸を出し、日本 
 人だ万歳ッと腹一杯叫んで救われた」
 
つまりは惨状目を蔽うばかりであったということになる。
そして、事件に対し政府も新聞も素早く対応。
特に新聞社では号外を出し、現地に特派員を急派。
東京日日新聞、読売、朝日は連日のようにこの大虐殺事件を書き立て、現地の破壊された街の写真や証言を載せ、9000万の国民は悲憤慷慨、恨み骨髄に徹し、8曲の国民的悲憤の歌が発売された。
佐藤惣之助が作詩、古賀政男が曲を書き、西条八十も万斛の詩を書き、社会主義者の山川均までが「鬼畜に均しい」と言っている。
所謂、暴支膺懲(ぼうしようちょう)とは、この頃盛んに言われたスローガンなのだろうか。
将に「君よ憤怒の河を渡れ」ということになった。
 
無制限な猟奇的な殺人、この本にはそれらのおぞましい写真が掲載されているが、実にその惨状言語に絶し、正視に堪えない。
かなり長文になり申し訳ないがまだ書かねばならない。
 
雑誌『主婦之友』が吉屋信子をカメラマン同行で現地へ送り込んで来た。
何故、女性の吉屋なのか解らないが、女性だけに現地ルポも大変だっただろう。
一行が通州へ向かったのは8月29日朝。
皇軍慰問特派員」という陸軍からの許可書を持って。
吉屋信子の見聞録はかなり長いが私なりに重要なところを引用してみたい。
 
嗚呼、通州!
北平(ペイピン)に着きし翌日は、まさに八月二十九日(事件一か月後)
特務機関の全員は、重要書類を死守して、五千発の弾丸を撃ち尽くし、遂に甲斐中佐は、白刃を抜いて入り来る敵を突き刺しつゝ力戦、遂に力尽き、無数の弾丸を受けて、無念にも倒れた。
 
もっとも惨劇の激しかった近水楼では。
 
あゝ、今の刹那見た血しぶきは、みな此処の女中さん数人の血だったのか!
か弱い女性に、武器を持って、あらゆる暴力、悪逆非道残忍の行為をほしいまゝにし、地獄の責苦の殺し方をした冀東政府保安隊よ、汝等人類の敵、地球上の男性中の最悪劣等卑劣、獣類に半ばする彼等を、日支親善平和の通州保安隊として、日本軍自ら彼等を、軍隊教練を指導して、一人前の兵士に仕立て上げてやったのだとは、さればこそ、守備隊も通州居留民も、彼等を信頼して、北支事変後も、此処ばかりはと、平和を信じて動揺せず、その日まで、各自業に安じてゐた故にこそ、この無残な災禍を受けたのだった。
 
あゝ、出来る事なら、この場所へ、蒋介石の夫人宋美齢を伴ひ来たって、彼女たち支那の女性の生んだ、支那の男性が、こゝにいかなる女性幼児虐殺を行ったか、見せ、
示してやりたいと思った。
宋美齢夫人よ、いかに?
 
来る時は、保安隊の残兵が出たら怖いと思ったが、帰る時は、われら悲憤に燃ゆるあまり、残兵出るなら出てみよ、必死となって復讐してやる!
と眼が血走る思ひだった。
 
女性にしてこの怒り。
将に怒髪冠を衝くとはこのことだ。
アメリカ人ジャーナリストのフレディリック・ウィリアムズという人はこのように言っている。
 
「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」
「最も闇黒なる町の名として何世紀の後も記されることだろう」
 
いつの時代でも歴史というものは神社仏閣、名所旧跡、古文書などを除けば紙に書かれた印刷物でしかない。
そこからいくら事実関係を炙り出したところで想像の域を出ない。
 
特務機関員だった父はよく戦争の話しを熱く語った。
市街戦の模様、複数のトラックで移動中、待ち伏せを喰らい脚に銃弾を浴びたこと。
貫通銃創じゃなかった為に重症であったこと。
同僚が部屋で殺害され秘密書類を盗まれたこと。
トラックの荷台で同僚の頭が敵弾で吹き飛ばされたこと。
砲弾が遠距離に落ちる場合と近距離に落ちる場合の音の違いなど子供の私を捕まえて熱弁を奮っていたが、父にとっての思い出は私にとっての想像でしかない。
 
歴史には時として異説がある。
それをどう取捨選択するかは本人の歴史観や学習力も必要だが、バランス感覚を身に付け、鋭い洞察力も必要となろう。
想像を更に炙り出して肉感的に形作るのは並大抵ではない。
こんな名言がある。
 
「歴史を学ぶとは、現在という高所から過去を審くことよりは、嘗て未来の闇に向か
 って孤独な決定を行った人間の身になることであろう」
 
さて、やっと長い記事から解放されるわけだが、この事件は全国民の知るところとなり、無論、全将兵の耳にも入った。
今現在も両国間で問題になっているあの大事件を溯ること4か月余り。
もし、あの12月13日に起きた虐殺事件があったとしたら、この通州事件の記憶も耳新しい日本兵はどのような思いで南京城内に入ったのだろうか。
上海派遣軍司令官松井石根大将が入城したのは17日。
戦後A級戦犯として処刑されたが興味のある方は一度、松井大将がどのような人だったか読まれるのもいいかと思う。
 

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