愛に恋

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日本会議 戦前回帰への情念 山崎雅弘


最後の岡っ引きと言われ、「吉展ちゃん事件」の犯人、小原保を落した警察官、平塚八兵衛は、小原処刑の報を聞いて、しばらく後、その小原保の墓参に行ったと記憶するが、日本人的な思想では、どんな悪人も死ねば、みな仏になるという概念があると何かで読んだことがある。
何も平塚さんは極悪人を賛美するために墓に参ったわけではない。
 
しかし、どうだろうか?
靖国の問題は戦後七十年余の今日に至っても参拝の是非を巡る議論は内外ともにかまびすしい。
注意すべき点は、あくまでも内外共にというところにある。
つまり国内に於いても非を主張する人が居るからに他ならないのだが、するとどういうことになるのか?
 
つまりは、処刑され、死して尚、極悪人というレッテルを貼られているが故、参拝は相ならんというわけになる。
死ねばみな仏になるのではないということを一部日本人が、これまた内外に声高に叫んでいる。
 
先にお断りしておくが、当ブログは政治関連ブログに非ず。
これは、読書感想文であること、お間違えなきよう。
 
さてと、どうするか・・・!
つまりはこういうことだ。
靖国に参拝して戦没軍人に手を合わす、それ即ち、戦争指導者にも手を合わせているということになる。
そこで見解が分かれる。
ただ分かれるだけではない。
右派と左派の鬩ぎ合いは舌鋒鋭く批判し合い、まるで民族を二分するかのようだ。
 
しかし、この論争、客観的に見て着地点などあるのだろうか。
全く持って不毛の論争のように映るが。
しかし、人間は不毛の論争だからと言って押し黙るということはない。
却って逆だ。
最近の傾向を見ていると熱戦がより煽られているように見えるのだが。
 
そもそも、歴史観が違う場合、いくら話し合っても解り合えるなどということはない。
話せば分かるなどというのは犬養毅の場合だ。
そこで妥協点として出たのが、何処か別の場所に無宗教で誰もが参拝出来る所を作ってはどうかと言う案が誰かの内閣の時にあった。
しかし、この案はどうだろうか?
 
戦没者の多くは靖国で会おう」と言って散華した人も多く、それら故人の意に反して全く知らない場所に祀られるということを知ったらどう思うだろうか。
仮にである。
全国民が靖国参拝を拒否する。
唯の一人もお参りしない。
もし、私が戦没者で後世の人からそっぽを向かれたとしたら、私たちは何の為に戦ったのかと思わないだろうか?
 
あの熾烈な戦いを経て今日があるのに戦死した人のことなんか関係ないなんて思われたら一体どうしたらよいのか。
もう、馬鹿らしくて遣ってられないねとならないだろうか。
余談が長くなった。
 
日本会議、現在、日本最大の右寄りの団体だが戦前の黒龍会玄洋社の流れではない別の団体になるが思想的には近いものがあるのだろうか。
しかし、著者は左派的な立場で書いている。
日本会議」とは何ぞや!
 
国家神道体制下での時計の針」を再び動くようにして戦前回帰のカリキュラムで日本を統治しようというようにも思える内容だが、果たしてどうか。
例えば弁護士になるにせよ検察官なるにせよ司法試験を受けなければならないわけで、同じ試験を受けながら一人の容疑者に対し、死刑を求刑をする検察官と無罪を主張する弁護士が居る。
この現象を我々素人はどう見たらいい?
 
国家試験をパスした秀才の二人が一つの事件を巡って全く相反する結論を導き出す。
更に、正義はこちらにありと御旗を振りかざす。
殺したか、殺してないかに関して灰色決着などあり得ぬ。
それでは、南京問題をどう考える。
 
私個人はあったと考える。
しかし、数が問題だ。
昔、読んだ本にも書いてあったが、30万人はともかく、例え3000人でも大虐殺に違いないと言えば、私はそれに同意する。
だが、大事なのは今日のような平和で人道的立場から当時の事件を一方的に糾弾するのはどうかと思う。
著者もこう書いている。
 
「いずれのケースも苛烈な戦場における将兵の異常心理状態を十分考慮すべきであり
 また、被害者の総数も立証されていない」
 
法廷論争でよく耳にする、被告人は当時、心神耗弱状態にあり云々。
そういう見解が通るなら、戦場に於いては双方が心神耗弱状態にあると言える。
戦火の中で人道主義などと唱えていては自らの死を招く。
つまり、非は戦争そのものにある。
しかし、一端、戦火を交えたら最後、将兵たちは、文字通り死力を振り絞って戦うしかあるまいに。
誰もが死にたくはない。
ならば相手を殺す。
それが戦争だと思っている。
生きて、家族の下に帰らねば。
 
故に軍旗に悖る行為があったと想像する。
しかし、ある面、戦争とはそういものだということを物語っているとも思う。
日頃、優しかった父や兄と雖も戦場に於いては正常な感覚足りえない。
では、それらの行為に及んだ、または指導した将兵が祀られている靖国で手を合わせたら戦争肯定論になるのかと言えば、事はそう単純ではあるまい。
 
何だか話の本質が筋に乗っ取っているのかどうか怪しくなってきたが、日本会議が目指す戦前回帰というものが事実だとしても、左派勢力の言う再び大陸への侵攻などは俄かに信じられない。
何の為に?
何の目的で?
貿易に頼らざる得ない日本の現状では領土防衛の為の紛争はあっても侵略行為の再現などはあり得ないと思っている。
 
では、何故、日本会議なる右派が存在するのか。
戦前回帰と言っても、それは日本人としてのアイデンティティを取り戻すと言うことであって、何も今更ファシズムの道をひた走り、昔、来た道を逆戻りして滅亡の淵に立つ、そんなことはないと信ずる。
また、そんな企みがあっては堪らない。
確かに今の世界情勢は混沌としている。
何が起きるか解らない。
それ故、しっかりと凝視する必要はあると思うが、あまりヒステリックに事を荒立て考え過ぎるのもどうかと思うが。
 
一番偉いのは戦争をしない軍人だと言った人が居たが、精神の鍛練は怠りなく誤りのない舵取りが出来る人ということだろうか。
しかし、日本を取り巻く情勢は思った以上に激越で更に、右派と左派の対立は罵り合っているように感じる世情になって来た。
荒廃した精神構造を戦前回帰の下に取り戻す勢力を日本会議と呼ぶか、再びファシズムの下に超国家主義の道をひた走る集団を日本会議と捉えるのか解らないが、ただ、言えるのは、この本を読めばみな統一した考えになるとは必ずしも言えないことだけは確かだと思う。
 
アメリカの新大統領は果たしてDr.スランプならぬDr.トランプになるのか否か。
ある面、興味ある時代に突入したのだろうか?
 

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