愛に恋

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鎌倉のおばさん 松村友視

永井荷風は、女に対する欲望が枯れ果てた時、死を願ったそうだが、まあ、それも解らぬ話ではない。
男にとっては女あっての人生だとも言えるわけで。
人間社会に於いて芸術家は極端な例を仕事や実生活に持ち込むことがある。
故に、その取り巻きは否が応でも暴風雨圏内に放り込まれるような生活を余儀なくさはれることが多々ある。
 
天才ゆえの傲慢は許容する、というのが、まず文明社会の不文律なのだ
 
と、言われるが、この定義に当てはまる人物は洋の東西を問わず無数に存在する。
数え上げたらキリがない。
また、それらの人物を過去、好んで読んできた。
 
今日、紹介するのは明治生まれの忘れ去られた文士、村松梢風
今日、彼の作品を目にすることは殆どないが、最近になって作家の村松友視氏が梢風の孫であることを知り、非常な興味を持ってこの本を購入した。
村松友視氏から見た村松家の裏側を見事に浮き上がらせた意欲作のように思える本作は佐藤愛子の『血脈』にも似て面白い。
 
まず、梢風の家族構成は。
正妻の名はそう。
そうとの間に4人の息子がいる。
長男友吾、次男道平、三男喬、四男暎。
長男友吾は上海でチブスに罹って客死、まだ28歳だった。
そのひとり息子が友視ということになる。
年若い友吾の妻は梢風の勧めで籍を抜かれ他家へ嫁ぐ。
そして、友視は梢風の五男として入籍し成長。
 
さて、タイトルの『鎌倉のおばさん』とは梢風のお妾さんのことを指すのだが、そのお妾さんが二人いる。
少しややこしいが戸籍上、梢風の五男となった友視は梢風の本妻、つまり静岡県清水市に住む、本妻そうによって育てられる。
 
鎌倉の別宅は300坪もあるお邸で、元服部時計店の別荘。
戦後、妾の絹江と住むようになる。
つまり、絹江が、鎌倉のおばさんで、梢風の死後、34年に渡って広大な邸で一人住む絹江が物語の主人公。
だが、それ以前に荻窪に住む、よねというお妾さんが居たから事情は難しくなる。
友人の小島政二郎に言わせると、無類の女好きだった梢風は、おその、お梅、九重、おたみ、稲葉、およね、よし子、キヌエと女を渡り歩き、本妻ばかりが、お妾さんとても、余程、腹が座っていなければ務まることではないと書く。
 
ところで村松梢風とはどんな作品を残した作家なのか。
一番有名なのは『残菊物語』かと思う。
何度か映画化されてもいる。
他に『本朝画人伝』『男装の麗人』『魔都』など有名だが、川島芳子のことを男装の麗人と言ったり、上海を魔都と読んだのは梢風が初めてだとか。
造語に関しては天才的の閃きを感じる。
 
ともあれ、絹江と出会った時は子供の存在を隠し、よねは旅館の女中で梢風が京都に竹内栖鳳を訪ねた時に知り合った。
可笑しいのは年齢で、よねは梢風に出会った時、25歳と言っていたが実は35歳。
絹江は、どういう訳か逆に9歳も年齢を足すような嘘を付いていた。
 
しかし、それはいいとしても問題は梢風の性格である。
本妻には実母やゑと友視の世話をさせ、自分は妾と鎌倉の大邸宅で暮す。
よねが死去した後は、実質的に絹江が表向きの顔となり、本妻はあくまでも裏に徹し
、また、その境遇に良く堪えた。
更に梢風亡き後、51歳の絹江は自ら梢風未亡人の役を全面に押し出し、85歳で亡くなるまで松村家と微妙なバランスのまま家族関係のようなものを保った。
 
麻の葉のように乱れた痴情を泳ぎまくり、生きている殆どを女と縺れ合って過ごす梢風のような男を好きにならざるを得なかった女たち。
まったく、縁は異なもの不思議なものである。
そんな絹江の事を友視はこう本人に言っている。
 
「ちょうちんババアって言うでしょ、あれは横の皺のオバアサンだからね」
「はあ、そう」
「落語でね、縦の皺の女の人を唐傘ババアって言ってたよ」
「へえ、そう」
 
また小島政二郎の評では。
 
「あれが、例の京都の女でね」
そう言われて、私はじめ友達一同、梢風の審美眼を疑った。
 
これは絹江のことで、およねに関してはこうなる。
 
彼が何かのことで癇癪を起して、焚き立ての飯の入っているお鉢を、およねの頭からスッポリ被せたという話しがあった。
あの縮れ毛の一本一本へ御飯粒がくっついていたところを想像すると、私たちは腹の皮をよじって笑い転げた。およねが不断澄ましてめったに笑わない女だけに、私たちにはこたえられないおかしさだった。
 
と、酷い言われようだが、女の閲歴では梢風に遠く及ばない彼等は。
 
「しかし、梢風のことだから、あの女、別にいいところがあるんじゃないのか」
 
という結論になる。
この時代の男女間の色恋。
または艶聞、醜聞、今では到底受け入れがたいと総反発を喰らいそうだが、良識ある行い、モラル、マナーは、一端、手綱を緩めれば斯くの如き危うさの上に成り立つものかも知れない。
別に梢風を擁護するわけではないが、一夫一婦制の規律を守ろうとする側と、綻びを治そうとはせずに意のままに行動する者。
どこか人間としての可笑しみを感じてしまうのだが。